吉田松陰の北浦巡視⑥

ラスト。
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嘉永2年7月18日
①早朝出発。
宿の近くにある厳島の祠に向かう。
厳島の祠に参拝。
裏手の日和山を越える。
※ここでの厳島社は伊崎厳島神社
 下関市伊崎町 伊崎厳島神社/鈴ヶ森稲荷神社

③海辺に出て身投げ岩に到着。
 下関市彦島海士郷町 身投げ岩
ここは会所の軽卒が海上を監視する場所。
※身投げ岩は彦島側にありますので、
 その対岸の事でしょう。
筋ヶ浜を過ぎて大坪金毘羅山へ。
④大坪金毘羅山の狼煙場に登る。
武久を眼前に見下ろす。
遠く北浦の海まで見えた。
 下関市金比羅町 金比羅公園
金毘羅を下って会所へ向かう。
新地会所に寄って武器庫を検視。
終了後、宿で昼食を取り、
小舟で丸山八幡へ向かう。
※丸山八幡と記されていますが、
 亀山八幡宮の事。
亀山八幡宮の下に小舟を着けて拝謁。
小舟を帰して徒歩で阿弥陀寺に向かう。
⑧阿弥陀寺では絵説を聞いて宝物を見学。
 下関市阿弥陀寺町 赤間神宮
※阿弥陀寺は現在の赤間神宮
 絵説は源平合戦図の事でしょう。
 現在でも宝物殿で見ることが出来ます。

伊藤木工之助宅(本陣伊藤家)に寄ると、
偶然にも頼龍三郎と出会う。
小舟で一緒に宿に帰る。
関屋松兵衛の宿で宿泊。

嘉永2年7月19日
⑨早朝、宿を出発。
鰯松の下を通って小門へ。
⑩小門の御船倉を巡検。
ここは13隻の船を所有している。
午後から新地会所に向かう。
⑪新地会所で出立の挨拶をする。
会所を出て徒歩で伊藤家へ。
本陣伊藤家に到着。
数刻にわたり話をして帰る。
伊藤曰く、関、新地、伊崎、竹崎など、
合わせて人家は万を数え、
寺は35個所に及ぶという。
⑬関屋松兵衛の宿で宿泊。


廻浦紀略の道筋8

嘉永2年7月20日
①早朝、和布刈通で出発。
小瀬戸(小門)の間を抜ける。
綾羅木安岡を通り過ぎ吉見浦に至る。
②吉見に到着して宿泊。
 下関市吉見 吉見浦
漁船は肥中で見たものと同様。
これらの漁船は大抵馬関で造られ、
12~13両するらしい。
これは8年分の生活費と同様との事。

嘉永2年7月21日
②宿を出発して出航。
吉母大谷頭を経て矢玉に向かう。
③矢玉に着いて飯田猪之助と陸路を行く。
 下関市豊北町 矢玉浦
涌浦荒田村を経て特牛浦へ向かう。
④特牛浦に着いて和布刈通と合流。
 下関市豊北町 特牛湊
浦の民家に宿泊。

嘉永2年7月22日
④港を出発。
西風が吹いて船は順調に進む。
尼ヶ瀬辻山向津具を越え、
河尻立石津黄を通過。
瀬戸崎の港に停泊し、宿泊。
 山口県長門市 仙崎湊

嘉永2年7月23日
⑤朝、御番所の役人山崎半左衛門を訪ね、
王子ヶ鼻台場を巡視。
出航して白潟澤江小嶋を右に見る。
御船倉に到着。
 山口県萩市 浜崎宰判勘場跡/御船倉


廻浦紀略の道筋9

・・というわけで松陰の北浦視察は終了。
巡視もまんべんなくという風ではなく、
いきあたりばったりの感がありますね。
結局、北浦が攻められたという事も無く、
戦火は関門海峡での下関戦争及び、
小倉戦争に限られたわけです。
小倉に関しては、
城下を固めて船を寄せ付けなければ」と、
松陰はその防戦方法を考えていますが、
小倉藩は反対に城を自焼させて、
野戦の策を取ったわけです。
しかも相手が長州藩で指揮官は愛弟子とは、
松陰も思わなかったでしょうね。

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