下関市井田 来福寺/藩主正室らの避難場所

文久3年の長州藩攘夷決行に際し、
支藩の長府藩も宗家と共に行動しますが、
戦場となるのが長府藩領であるだけに、
色々と諸問題が発生します。

長府藩の藩庁である長府陣屋は、
破却された櫛崎城三ノ丸跡である為、
攘夷戦で外国船が反撃に転じた場合、
大砲が届く非常に不利な場所でした。

そこで藩庁移転が決められる訳ですが、
藩庁を移転するには幕府の許可が必要です。
それを危ないからと勝手に移転することは、
既に幕府に対する反逆行為。

宗家も山口政事堂に藩庁を移していますが、
それは元治元年10月の事。
長府藩が勝山御殿に藩庁を移転したのは、
元治元年2月の事です。
宗家より先に藩庁を変えてたようですね。

攘夷戦は文久3年5月10日に開始。
結局のところ移転は間に合いません。
長府藩は覚苑寺を本陣として攘夷戦に臨み、
文久の改革により国元に戻った藩主正室を、
戦火の届かない内陸部に非難させました。
その場所が来福寺です。


下関市井田周辺(来福寺の場所)
後に移転する勝山より更に内陸ですが、
安全という理由が一番でしょう。
この来福寺は初代藩主毛利秀元の生母で、
穂井田元清の正室妙寿院の菩提寺。
※妙寿院は初代藩主の生母。
由緒も正室の避難場所に格好の場所でした。
当時の藩主毛利元周の正室は、
大洲藩藩主加藤泰幹の娘千賀姫
華やかな江戸から田舎に来たと思ったら、
もっと田舎に避難するハメになろうとは、
夢にも思ってなかったでしょうね。


来福寺山門」。
綾羅木川上流の田園地帯。
小高い山の中腹に来福寺はあります。
初代藩主の生母の菩提寺として開山した後、
家老伊秩家に庇護されています。


来福寺本堂」。
それ程に大きくはない本堂は当時のまま。
千賀姫はVIP待遇だったのでしょうが、
不便なことも多かった事でしょう。
ここには勝山御殿完成までの半年以上、
この来福寺で過ごしています。

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