山口県萩市 海潮寺

萩市には幕末志士の墓所が沢山ありますが、
下関市と萩は高速で1時間半と遠いので、
そんなに頻繁には行くことが出来ません。
幸い嫁さんの実家が島根県益田市ですので、
盆正月は孫の顔を見せに帰りますので、
その道中にある萩に寄ることができます。

そういうわけで下調べをしておいて、
史跡や墓所を少しづつ訪問するのですが、
今回は海潮寺に行ってみました。

海潮寺は元々石見国温泉津にあった寺で、
毛利輝元の防長移封に伴い移っています。
毛利家の庇護の許で長門及び石見国内に、
11の末寺を擁して栄えますが、
本堂は明治7年に火災で焼失。
藩校明倫館聖廟を本堂としていました。


海潮寺本堂」。
この本堂は藩校明倫館の聖廟であった建物。
流石に立派ですね。


大江姓 長井時庸之墓」。
長井雅楽の墓は本堂左角(前側)にあります。
時庸は諱で一般的に知られる雅楽は通称。
長井家は毛利家と同じ大江広元を祖先とし、
家紋も元は「一文字三つ星」でしたが、
配慮して「二文字三つ星」にしたという。

↑長井家家紋。

長井は航海遠略策を提唱して藩主に建白。
積極的に通商を行って国力を高め、
そのうえで皇威を海外に振る」というもの。
これが長州藩の藩論となるのですが、
久坂玄瑞ら過激派の朝廷工作により破綻し、
長井は失脚して謹慎処分となり、
やがては切腹を命じられます。
長井の策は非常に誠に的を得た策であり、
明治政府の方針そのものであったのですが、
正論も時期を違えれば邪論となるもの。
過激派によって妨害されてしまった訳です。


贈正四位渡辺内蔵太 妻喜久子之墓」。
こちらも本堂左角(後側)あたりにあります。
長井は開国派でしたが渡辺は攘夷派で、
高杉晋作らの御楯組にも参加しており、
藩論を攘夷に移行させた過激派でした。
下関戦争講和の際には晋作の副使として、
杉孫七郎と共に四ヶ国連合艦隊と交渉。
しかしその後の第一次長州征伐では、
主導権を握った俗論派によって捕えられ、
野山獄で処刑されました。

開国派と攘夷派のこの二人の墓が、
本堂両角にあるのは何の因果でしょうか?

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