群馬県館林市 館林城跡

館林藩榊原康政により立藩された譜代藩
康政は徳川四天王のひとりで、
」の旗印を用い数々の戦で戦功を挙げ、
小牧長久手の戦いでは、
羽柴秀次の軍勢を壊滅に追い込み、
森長可池田恒興を討ち取っています。
後に3代藩主榊原忠次白河藩に移封され、
館林は一時的に天領となりましたが、
すぐに大給松平宗家が入封して2代続き、
その後は佐倉藩へと移されました。

次に5代将軍となる徳川綱吉が、
25万石で館林藩に入封。
しかし4代将軍徳川家綱が継死去した為、
急遽綱吉が将軍に就任し、
代わって子の徳松が館林藩主となりますが、
僅か5歳で早世してしまい断絶。

その後は越智松平家太田家と代わった後、
再び越智松平家が藩主となり、
3代続いて藩主家が落ち着きますが、
浜田藩密貿易事件が発覚したことにより、
藩主家の松井松平家棚倉藩に移された為、
越智松平家が浜田藩に移されました。

代わって棚倉藩より井上正春が入りますが、
すぐに浜松藩に移され、
山形藩から秋元志朝が入封して、
秋元家が廃藩置県まで続きます。


上野国館林城図」。
現在は殆ど埋め立てられてはいますが、
当時は城沼を天然の堀にした水城でした。


館林城跡」碑。
館林城の築城には諸説があるようですが、
有名な伝説に狐の尾曳伝説があります。
当地の武将赤井照康が館林城を築城する際、
築城奉行が館林に視察に行くと、
子狐が子供達にいじめられていました。
そこで子供達から子狐を救うと、
その狐が案内するしぐさをした為、
築城奉行がこれについていくと、
狐は尻尾を使い城の縄張りを描きました。
築城奉行はこの狐が書いた通りに築城し、
それが館林城となったとされています。


館林市文化会館」。
三ノ丸跡は現在館林市文化会館
館林城は上杉謙信によって奪われ、
上杉家家臣長尾当長に与えられましたが、
謙信の撤兵後に北条家の支城となりました。
豊臣秀吉小田原征伐が始まると、
関東の支城の攻略が行われ、
石田三成の別働隊が館林城を包囲。
城沼を要する館林城に対し、
木々を伐採して城沼に投げ入れ、
城を攻略しようと試みますが、
一晩経つと投げ入れた筈の木々が無い。
これを狐の加護であると三成は恐れ、
力攻めはせずに降伏させたという。


三ノ丸土塁
遺構の少ない館林城ですが、
三ノ丸跡には土塁が多く残っています。
城は維新後に民間に払い下げられますが、
旧藩士達により買い戻されました。


土橋門」。
明治7年の大火で館林城の殆どは、
焼失してしまいますが、
旧藩主秋元家の尽力により、
大正7年に土橋門が復元されました。
戦後、老朽化により取り壊されましたが、
昭和57年に観光事業の一環として、
現在の門が再復元されています。


贈従三位秋元志朝之碑」。
秋元館林藩初代藩主秋元志朝の顕彰碑。
志朝は徳山藩主毛利広鎮の八男で、
母が秋元家の出身だった為、
山形藩主秋元久朝の養子となりました。
久朝の隠居により家督を継いた後、
館林藩に転封となっています。
禁門の変の責任で自刃した福原越後
徳山藩9代藩主毛利元蕃
長州藩世子毛利元徳と兄弟で、
姉や妹も長州藩の家老に嫁いでいました。
この為に長州藩とは親密だったようで、
禁門の変で長州が朝敵となると、
その出自ゆえ強制隠居させられ、
養子の秋元礼朝に家督を譲っています。
その後も藩政に関与しており、
長州と幕府の仲介役となりました。


館林市役所」。
二ノ丸跡館林市役所が建てられています。
明治期には上毛モスリンに売却されて、
紡績工場が建てられていました。


館林城ゆめひろば」。
旧神戸生絲館林工場の跡地で、
二ノ丸および南郭だった場所です。
現在は更地となっていますが、
何らかの活用がされるのでしょうか?


三重櫓跡」。
天守の役割をしていた三重櫓の石垣。
どうもそのまま残されている訳ではなく、
工場の建設に伴って改変された模様です。
とはいえ他が殆ど更地な分、
少しでも残ったのは幸いですね。


向井千秋記念子ども科学館」。
本丸のあった場所は、
向井千秋記念子ども科学館となっています。
日本人女性初の宇宙飛行士向井千秋氏は、
館林市の出身とのこと。
彼女の偉業を記念して、
その名が付けられたようです。


旧秋元別邸」。
八幡郭跡に建てられた旧藩主家の別邸。
上毛モスリンの重役の別荘だったようで、
大正時代に秋元家の所有となったもの。


秋元春朝投網の像」。
別邸の庭にある館林秋元家13代当主の像。
志朝の次は掛川藩太田家からの養子礼朝、
宇都宮藩家老戸田家からの養子秋元興朝と、
毛利家から離れていましたが、
春朝は徳山藩主毛利元功の三男で、
再び毛利家からの養子となっています。
粋人で領民に愛された好人物だったという。
この像は城沼に投網する姿ですが、
ふんどし一丁の銅像になっています。
この像は彫刻家毛利教武の作品ですが、
彼は長州毛利家とは関係ありません。


城沼」。
館林城はこの沼を天然の要害としました。
一時は水質汚染が深刻だったようですが、
色々な取り組みにより浄化されたようです。

幕末に館林藩に転封となった秋元家は、
水戸藩と共に関東の尊攘派の急先鋒でした。
上記のように長州毛利家との縁が深く、
幕府にも睨まれていたようです。
秋元家の館林への転封は、
水野忠邦による天保の改革の失敗が原因。
三方領知替えにより浜松の水野家が山形へ、
館林の井上家が浜松へ、
そして山形藩の秋元家が館林に移りました。
水野家は懲罰的な転封で、
井上家は旧領復帰の意味がありましたが、
秋元家はなんら意味はなかったようす。
ですが仮に転封されずに、
そのまま山形藩でいたとしたら、
戊辰戦争の際にはどうなったことでしょう。
結果的には良かったのかもしれませんね。

【館林藩】
藩庁:館林城
藩主家:秋元家
分類:6万石、譜代大名

■関連記事■
群馬県前橋市 光厳寺/館林藩秋元家墓所
 館林藩秋元家の歴代墓所。
松陰の東北遊学⑩
 吉田松陰は城内に入れませんでした。
周南市 徳山陣屋跡
 館林藩主秋元志朝は徳山毛利家出身。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です