岡山県津山市 鶴田陣屋跡

禁門の変を起こした長州藩を征伐する為、
幕府が諸藩に命じて始めた長州征伐
長州征討とも呼ばれていますが、
幕府側からみて長州を討つという意味で、
長州側では四境戦争とされています。

とはいえ幕府と長州藩の戦争ですので、
幕長戦争が正しいかなと思うわけで、
ここでは第一次長州征伐は幕府側の動きなので、
そのまま第一次長州征伐と呼びますが、
第二次長州征伐は双方が実際に戦ったので、
このブログでは幕長戦争と呼んでいます。

それは良いとして、
その幕長戦争で一番割を食らったのは、
小倉藩浜田藩ではないでしょうか?
双方共に城を自焼させて自領を占領され、
藩庁の移転を余儀なくされました。

小倉藩は香春に本陣を置いて香春藩となり、
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後に豊津に陣屋を築き豊津藩となっています。
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そして浜田藩も自領を追われる事となり、
飛地の鶴田に陣屋を築きました。


津山市桑下周辺(鶴田陣屋跡の場所)
鶴田は美作国久米北条郡の浜田藩飛地で、
8000石余の石高です。
4000人の家臣とその家族を養うには、
あまりにも少なすぎましたが、
鶴田藩は庄屋福山元太郎邸を本陣として、
藩の再興に乗り出しました。


県道159号線より細道に入ると、
石段が見えてきます。


鶴田陣屋(西御殿)」。
鶴田藩は飛地だった8000石と、
幕府からの蔵米2万石で立藩。
藩士ら全てが民家に寄寓生活という中で、
どうにか支配体制を整えると、
藩庁としての陣屋をここに建築します。
西御殿は藩主居住の為に建てられた御殿で、
政務を行う東御殿も建設する予定でしたが、
廃藩置県によって中止されました。
西御殿跡」碑の裏(どちらが表か不明)には、
作州鶴田藩六萬一千石」と刻まれており、
なんだか悲哀を感じてしまいます。
※実際に明治政府より加増があり、
 6万1000石に戻っています。


殉難碑」。
浜田藩(鶴田藩)の殉難者を追悼する碑。
鶴田藩は幕長戦争での敗北後、
藩士らは鳥羽伏見の戦いで戦い敗北。
鶴田藩は朝敵となってしまい、
その罪を一身に被って家老尾関隼人が切腹。
その尾関を筆頭に幕長戦争で戦死した12名、
鳥羽伏見の戦いで戦死した5名、
上野戦争に参加した7名を追悼し、
尾関の命日に慰霊祭が行われているという。

ここに藩主が引っ越したのは明治4年6月。
翌月に廃藩置県の詔書が下されており、
これによって鶴田藩は廃藩。
8月に武聴は東京に出発し、
藩主が滞在したのは僅か3ヶ月弱でした。

【浜田藩→鶴田藩】
藩庁:浜田城→鶴田陣屋
藩主家:越智松平家
分類:6万1000石(一時2万8000石)、外様大名

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島根県浜田市 浜田城跡
 浜田藩は籠城せずに自焼させて撤退しました。

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