福井県勝山市 越前勝山城跡

勝山藩という名を持つ藩は3つあって、
それぞれ区別の為に安房勝山藩美作勝山藩
そして越前勝山藩と呼称されています。

結城秀康は越前67万石を領していましたが、
2代松平忠直は将軍徳川秀忠に反抗して改易。
越前国は分割されて複数の藩が成立し、
越前勝山藩もその際に成立した藩でした。

越前勝山藩には秀康五男松平直基が入封し、
後に大野藩に転封、
代わって入った六男松平直良も、
大野藩に転封(直基は山形藩転封)しています。
その後は天領を経て小笠原貞信が入封し、
以後は松尾小笠原家(信嶺流)が藩主となり、
廃藩まで越前勝山を支配しました。

カーナビにて勝山城と入れると、
勝山城博物館と出てきたので目的地に設定。
何も考えずに向かっていると、
何やら大きな天守が・・・。

勝山城博物館」。
いきなり現れた巨大な天守閣は、
姫路城に似せて造られた製模擬天守。
実は全く越前勝山城とは関係ありません。
相互タクシー創業者多田清は勝山市出身で、
越前勝山城に遺構が残っていない事を憂い、
かつて勝山に城があった事がわかるようにと、
建築したものという。
しかしこのデカさは・・・。
似せて造ったという姫路城より大きそう。


天守石垣には龍が掘られています。
まるでゲームCG映画に出てくる敵の城
ちょっとやりすぎでは?と思います。
地元で勝山城といえばこの博物館らしい。
中には大名武具や染織品、西脇呉石の書など、
創業者のコレクションが展示されており、
貴重で珍しい物ばかりなのですが、
西脇の書以外は勝山には関係無いような・・。

さて本当の越前勝山城跡は、
勝山市役所及び勝山市民会館あたり。

勝山市民会館勝山市役所」。
越前勝山城の本丸があった場所。
石垣等の遺構は全く残っていません。
昭和40年まで天守台が残っていましたが、
市民会館建設に伴い撤去されたという。
なんてことを・・・。


勝山城址之碑」。
天守台があった位置に跡碑があります。
この碑は明治22年に建てられたもので、
その頃は天守台もありました。


林季梁遺徳碑」。
市民会館向かいの建雷神社にある林毛川の碑。
林毛川は幕末の勝山藩家老で、
江戸の昌平黌で学び、
家督を継いで家老兼勝手方頭取となり、
越前勝山藩の藩政改革に努めた人物。
藩校成器堂の開設、軍備の増強、倹約政策、
特産の煙草生糸の藩専売を実施しますが、
領民への負担も大きかった為に非難され、
8代藩主小笠原長守に罷免されています。

幕末の越前勝山藩は上記の林毛川主導で、
改革が実施されて一定の成果を挙げますが、
幕命の普請や安政地震の影響などにより、
財政は再び悪化しました。
藩主長守は林を罷免して自ら改革を主導し、
林の改革を踏襲しつつ緩やかな路線に変更。
後の新政府が発足に伴い恭順の意志を示し、
京都守備に藩兵を派遣。
弾薬2万発も献上しました。

【越前勝山藩】
藩庁:越前勝山城
藩主家:松尾小笠原家
分類:2万2000石、譜代大名

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