英彦山事件④

つづき。
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英彦山連判状に署名した衆徒は、
以下の15名。
 政所坊有緜(八百屋獄)
 義俊坊順堂(八百屋獄)
 正応坊観道(八百屋獄)
 本覚坊英山(八百屋獄)
 成円坊貫之(八百屋獄)
 厳瑤坊亮親(長州→六角獄)
 教観坊成連(長州→六角獄)
 水口坊観清(長州)
 如蔵坊英継(長州)
 良什坊幸貫(八百屋獄)
 橋本坊間道(八百屋獄)
 浄現坊栄樹(長州)
 中之坊豪端(長州)
 祐玉坊慶典(長州)
連判状に署名していないが、
首謀者として捕縛された者。
 城島主税(八百屋獄)
 生島大炊(八百屋獄)
 佐久間勝信(八百屋獄)

以上17名が英彦山17義僧と呼ばれます。
その他にも彦助という屋根敷きの息子も、
八百屋獄に捕えられましたが、
彼は義僧の中には含まれません。
六角獄に捕えられた厳瑤坊教観坊は、
平野國臣らと処刑されましたが、
残った5名は長州藩兵と共に上洛して、
禁門の変久坂玄瑞の麾下で戦います。
特に水口坊は勇敢に戦って戦死しており、
殉難第1号となっています。
※六角獄の処刑はその翌日。

禁門の変に敗れて落ち延びた4人の衆徒は、
敗残兵と共に三田尻に到着。
長州藩の不穏な情勢を感じ、
五卿を安全な場所へ移動させようと考え、
熟慮の末に竹田藩岡城が選ばれます。
早速、如蔵坊浄現坊が岡城へ向かい、
地方の勤皇家を訪ねながら進みますが、
やがて密告によって幕吏に知れ、
補吏から追われる身となります。
そこで二僧は別行動で長州に帰還を決め、
如蔵坊は秋月方面から、
浄現坊は田代方面から進み、
野村望東尼平尾山荘で落ち合います。
その間に五卿は大宰府への移動が決まり、
岡城への移動は露と消えました。

その後は豊後の志士達と共に、
代官所を襲う計画に参加しますが、
露見して失敗。
二僧は身を隠して潜伏しました。

つづく。
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■関連記事■
福岡県田川郡 英彦山神宮
 英彦山と殉難衆徒を招魂する招魂社。
大分県竹田市 岡城跡①
 当時の岡藩は佐幕であったようです。
福岡県福岡市 平尾山荘
 2僧は平尾山荘で落ち合いました。

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