濱崎家は代々海運業を営んだ商家で、
指宿を拠点に[ヤマキ]の屋号で商いを行い、
5代目の濱崎太左衛門の頃には、
全国長者番付に載る程に隆盛を誇りました。
7代目濱崎太平次の頃には家業が傾き、
唐芋を拾って飢えを凌いでいたようですが、
8代目濱崎太平次正房が家業を継ぐと、
※6代目からは代々太平次を名乗った。
琉球貿易で家業を立て直し、
更に奄美大島等の離島に生活必需品を送り、
特産品の砂糖と交換。
これを売って莫大な利益を上げています。
以降は事業を拡大して全国に支店を置き、
造船業も始めて更に利益は増収。
薩摩藩へ多額の献金も行っており、
幕末期の藩財政を支えていたという。
「湊児童公園」。
濱崎家の代々の墓所は湊南墓地でしたが、
湊南墓地は後に小田公苑墓地に移転。
濱崎家の墓も移されましたが、
8代濱崎太平次の墓だけは、
その偉業を称えて湊児童公園に移設され、
墓所が整備保存されています。
「法雲軒徳榮乘蓮居士」。
8代目濱崎太平次正房の墓。
公園北側の隅にあります。
8代太平次は密貿易も行っていたようで、
後にこれが幕府に発覚した際は、
弟の濱崎弥兵衛を率先して差し出しており、
非情な面を持っていたようです。
家や商売を守る事もそうですが、
密貿易は藩の指示もあったとされており、
薩摩藩を守る為だったともされ、
情に流されず何が最善策であるのかを考え、
心を鬼としたのかもしれません。
8代太平次は文久3年に大坂で客死し、
大阪市西区の竹林寺に葬られたようですが、
竹林寺に墓所はありません。
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