光明寺党」タグアーカイブ

下関市綾羅木 中山神社/中山忠光墓所

中山神社境内にある中山忠光の墓所。
中山忠光は北浦での逃避行の後、
田耕にある長瀬の渓谷で殺害され、
綾羅木に運ばれて埋められました。
埋葬地には後に墓碑が建てられ、
その霊を慰める為に中山神社が建立。
現在に至っています。


藤原忠光卿 神靈」。… 続きを読む

下関市細江町 光明寺

光明寺は延徳年間(1489-1492)に、
真宗本願寺派8世蓮如上人の弟子釈正善が、
西市に御堂を建立した事に始まるとされ、
その後は内日幡生へと移転して、
享保17年(1732)に現在地に移転したという。


光明寺」。
大東亜戦争続きを読む

榊屋仁作②

/②

文久3年5月16日。
白石正一郎の許に榊屋仁作から使いが来ます。
今日藍島から目の下二尺の鯛が届きました。
 粗酒一献差し上げたいと思いますので、
 ご兄弟揃ってお越し下さい
」との事。
あまり気は乗らないが、
せっかくのお誘いを断っては、
後日の祟りもあろうかと、
白石廉作と2人で馳走に行きます。

攘夷熱の沸騰している下関で、
気の荒い連中が大勢押し寄せてる矢先、… 続きを読む

天誅組以前の中山忠光⑥

/////⑥

中山忠光が再び下関にやってくると、
これを好機としたのが久坂玄瑞でした。

京で活動していた久坂ら尊攘志士30余人らは、
攘夷期限が決定されると下関に向かい、
自ら攘夷戦に参加しようとします。
ですが京では… 続きを読む

光明寺党の最初の宿泊地はどこ??

白石正一郎日記には文久3年4月27日昼。
久坂玄瑞ら30人余の志士がやって来て、
竹崎長泉寺に宿泊したいというので、
取り計らったと記されてます。
志士達は5月4日まで長泉寺に宿泊し、
その後に細江光明寺へ転陣しました。
この連中が光明寺党です。… 続きを読む