花燃ゆ」タグアーカイブ

群馬県富岡市 富岡製糸場

七日市陣屋を訪問する際、
乗る電車を間違えてしまい、
上信富岡駅行に乗ってしまいました。
※本来は2つ先の上信七日市駅が最寄。
仕方なく上信富岡駅の貸自転車を借りて、
自転車で七日市陣屋まで行ったのですが、
せっかく自転車に乗っているので、
寄り道して富岡製糸場まで行ってみます。


富岡製糸場」。
日本初の本格的な… 続きを読む

花燃ゆ 総評五

さてさて、そんな問題だらけの台本で被害を受けたのは俳優陣です。

大河ドラマですので出演者は蒼々たるメンバー。役者だけではドラマは作れない・・当たり前の事ですが、「花燃ゆ」で改めてそう感じました。

●一番の被害者は、主演の井上真央なのではないでしょうか?
子役から活躍し、演技には定評のある彼女ですが、脚本家4名がそれぞれ描く文(美和)像がバラバラで、四重人格者を演じねばなりませんでした。「至誠」をお題目に、何でもかんでも乗り切る茶番劇を演じさせられ、挙句の果てに脚本の変更のせいで防府市が怒った件で、彼女一人が事実上の謝罪として防府に行ったというヒドイ話・・・。

でも、なぜか50話見ていて彼女にイラっと来たことがありませんでした。かわいそうという気持ちがあったからか?それとも… 続きを読む

花燃ゆ 総評四

  • 幕末のホームドラマ
  • 幕末の学園ドラマ
  • 女たちの戦いのドラマ
  • 男たちの戦いのドラマ

「花燃ゆ」には4つのドラマがあるとして、大々的に宣伝されましたが、どれ一つまともなドラマにはなりませんでした。ホームドラマや学園ドラマなど、あえて大河で見たくないようなズレたコンセプト。それでもしっかりドラマになっていれば、少しはマシでした。

幕末のホームドラマというわりには、なんら家族内で事件が起こるわけでもなく、衝撃的なエピソードのある長女は出ず仕舞。松陰を除けば、寿以外毒にも薬にもならないようなただただ優しい家族。叔父の玉木文之進は杉家の居候ではないのかと錯覚します。でも、4つの中でまだマシでした。

幕末の学園ドラマというわりにイケメン達は集まるだけで、なんら学園ドラマらしい事もなく、松下村塾は閉鎖。久坂、高杉以外は殆どモブ扱い続きを読む

花燃ゆ 総評三

さて、今回の脚本家は当初二人でした。

殆ど歴史モノを書いた事の無い大島里美と、NHKで短編時代劇を何度か描いている宮村優子。何故、脚本家を二人にしたのか?脚本家が各話を書き分けるという意味不明の体制を取っています。素人考えですが、主人公一人とってもそれぞれの脚本家の人物像があるわけで、脚本家が各話を書き分けるとなると、主人公一人の行動に辻褄が合わなくなるでしょう。一話完結のアニメの脚本ならいざしらず、なぜこの体制にする必要があったのか?
考えられるのは一人じゃ出来ないら・・。

何故出来ないのか?忙しいからか、本人のスキルが無かったからか?とにかく一人で出来ない者同志を二人集めたって出来るとは思えない。二人を選んだのが誰だか知らないが、歴史モノのドラマを舐めてたとしか思えません。
やはり歴史モノを描くということは、脚本のプロであろうと、膨大な資料を読まなければならないわけで、幕末の歴史を全く知らない人間が、簡単に書けるとは思えません。

脚本家がダメだ、脚本がカスだと散々言ってきましたが、ある意味かわいそうな事だったのかもしれません。ごく普通の中学生の前に六法全書を積み重ねて、これについて要約したレポートを書けって言うようなもの。出来るわけないのです。途中から参加した金子ありさも、殆ど歴史モノを書いた事の無い。最後交代した小松江里子も、天地人で批判された人。何の為の交代だったのでしょうね。

別に彼女達に才能が無いとは言ってません。別の分野ではすばらしい作品が書けるのでしょう。調べてみればそれぞれ観ていたドラマもありました。一流野球選手にスポーツだからって、フィギュアスケートをさせるようなもの。出来るわけないのです。

さて今回の「花燃ゆ」は、原作なしのオリジナルドラマですが、仮に原作があったならもう少しマシなものになったでしょうね。先程の例でいえば、六法全書を要約した一冊の本を渡して、その本について要約したレポートを書けといったら、もっとマシなものが出来るでしょう。それと同じです。原作無しって実は「歴史そのもの」が原作なわけです。… 続きを読む

花燃ゆ 総評二

制作統括土屋勝裕チーフプロデューサー。この人がどんな人かも、制作統括がどんな役なのかも詳しく知りませんが、とにかく一番権限を持った人物であることは間違いないでしょう。彼がインタビューで「有名な人物は予想がついてしまうし、興味がなければ観なくなってしまう。信長や秀吉のような歴史のヒーローよりも、歴史に名を残さなかった人たちの目線が今の時代は、共感を得る上で大事なのではないか」と語っています。

それについては別に問題ない事ですが、ではなぜ「歴史に名を残さなかった人たち」に、
歴史に名を残すような事をさせるのか?上記のように「歴史に名を残さなかった人たち」にスポットを当てるのであれば、歴史に名を残さないような描き方をするべきで、「歴史に名を残さなかった人たち」が「歴史に名を残した人たち」を押しのけて、グイグイ前面に出てくれば、視聴者は白けます。僕はその「歴史に名を残さなかった人」である杉文を主人公にする事に、何ら問題は無かったと思います。しかしその扱い方を心得ていなかった作り手が、勘違い・暴走・迷走を繰り返し、とんでもない作品を作り出してしまったのでしょう。

彼は「文の人生でわからない部分が多い」という質問に「ええ。だからこそ、自由に描けて面白いんです。大河ドラマは史実をベースにして創作する「フィクション(虚構の物語)」です。ドラマで楽しみながら、そこから、じゃあ、本当の松陰は?本当の久坂玄瑞はどういう人だったんだろう?と興味を持っていただき、歴史学の方に入っていってもらえたら…と。とにかく楽しんでいただきたい。文さんは有名な人ではないけれど、自由にドラマをつくれる、ということで言うと、ぴったりの主人公なんです。」と答えています。

考え方が全く間違っています。本当の松陰を本当の久坂を描く気ははじめから無かったようです。「フィクション(虚構の物語)」と言い切っています。よくあれが史実と違う、ここが史実と違うという批判に「ドラマだから」「小説だから」「マンガだから」と開き直る人が多いのですが、実際そのとおりで歴史書や教科書ではないのですから、ある程度のエンターテイメント性を持たせるために創作が必要です。しかしそれにも限度があります。
作品の構成上仕方なくであったり、時間的に端折った部分だったり・・・。史実に沿うように作った作品は、史実に沿わなければならないのです。謎の部分であったり、諸説ある部分を創作するのを誰も怒らないでしょう。ですが周知に事実を違った風に描くべきではない。そうでなければそれは「… 続きを読む