吉敷毛利家」タグアーカイブ

下関市豊北町 西楽寺/毛利秀包墓所

関ヶ原の敗戦で改易となった小早川秀包は、
毛利輝元によって再び召し抱えられて、
小早川姓を捨てて毛利秀包を名乗ります。
小早川秀秋裏切りを忌み嫌った為。
しかしその翌年に病死してしまい、
家督は嫡男の毛利元鎮が相続。
元鎮は父秀包の亡骸を滝部に葬りました。… 続きを読む

小早川家の復興

毛利元就の両川吉川元春小早川隆景
嫡男毛利隆元を補佐し、
中国制覇に大きく貢献しており、
一般的に三本の矢の教えで知られるように、
隆元とその次代毛利輝元を盛り立てました。

吉川元春は戦上手として知られ、
その戦跡は76戦64勝。… 続きを読む

山口県山口市 玄済寺/吉敷毛利家墓所③

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つづき。


洞元院殿貫禪一之大居士」。
13代及び15代当主毛利元一の墓。
12代毛利房謙の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督相続しました。
家臣の子弟教育を推奨したようで、
優秀な者を遊学させるなど、
非常に開明的な当主であったという。
藩内では正義派続きを読む

山口県山口市 玄済寺/吉敷毛利家墓所②

/②/
つづき。


慈光院殿在天道自大居士」。
3代当主毛利元包の墓。
2代毛利元包の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
同年に家中の知行地再編で吉敷に移り、
以降は代々吉敷を所領。
46年の当主在籍の後に隠居し、
その5年後に死去しています。… 続きを読む

山口県山口市 玄済寺/吉敷毛利家墓所①

①//

毛利元就の九男であった小早川秀包は、
関ヶ原の戦い後に改易されて浪人となり、
後に改めて毛利輝元に召し抱えられ、
阿川滝部殿居7千石を与えられました。
これが… 続きを読む