攘夷戦」タグアーカイブ

金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑭

9月5日 昼時に在山口の参政長嶺内蔵太より、
 奇兵隊に飛報あり。
 山口等の士族等らの間で激論が生じ、
 両君公に現政府員を退けるよう迫ったという。
 すぐに両隊より四五十人ばかり山口に赴く。
 夜に入って隊用で山口に行き小路片岡に至り、
 時山福田、… 続きを読む

金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑬

8月6日。翳。暁天より砲戦。
 敵艦の砲撃は前日より急撃。
 我砲台に向けて全力を尽くすものの如し。
 四時頃より前田には敵兵が上陸。陸戦の報あり。
 我砲台の架砲は砲身が裂け又は砲架より転倒し、
 弾丸もまた尽きんとす。
 四ッ半時より砲台を棄てて前田に至り、
 陸戦を救援せんとして壇ノ浦後方の間道を経て、
 前田に至る途上、椋野村山頂の一寺院で休憩。
※壇之浦砲台陥落。この一寺院は位置的に円陵寺か?
 京より帰国の竹内庄兵衛、… 続きを読む

金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑫

5月15日 晴。隊員栗林瀧次郎と共に、
 中野村陣営を発し前田村奇兵隊陣営に至り、
 総督及び軍監等に面会し、
 来営の要領を談じ隊食堂で晩餐を喫し、
 初更の頃辞し去り。
 更に亀山社伊勢屋小四郎方に投宿す。
5月15日 晴。朝新地奉行所に至り、
 従兄… 続きを読む

金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑪

元治元年甲子【文久四年八月改元】
正月 在宮市奇兵隊膺懲隊に改称。
20日 宮市を発しに帰省す。
 この日遊撃軍が上京を決める。
 膺懲隊よりは十五人を派遣する。
 他の十一隊も一隊につき十五から二十人と聞く。
 上京の人数は三百人ばかりで余も上京の人数なり。… 続きを読む

金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑩

10月10日 晴。小瘡は全く癒え、
 市街を往来することが出来るようになったので、
 清光寺に設立された奇兵隊に往来す。
 山口政府より御直書付が到来した。
※以下御直書ですが面倒で訳していません。
 ( )内は変体仮名で間違ってたらご愛敬。
 我日の本(わ)
 天津日嗣の知食
大御國(に)して其中に生る(そ)の皆其御民なり
其民に自然上下の分(あ)りて君臣の別(あ)(り)
我辱くも二州を預り領し汝等は君臣の義なりと
いへとも其本は均しく天子の御民なり
汝等能く吾(に)事るは叉天朝(に)事る
所以(に)して能く事へさるは亦よく
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