大雲寺は龍泰寺末寺の曹洞宗寺院。
宝永6年(1709)3代当主村田政辰が、
※当時は村田政種と称していた。
龍造寺政家の菩薩を弔う為に創建し、
龍泰寺14世治節和尚を迎え開山。
以後は村田家当主の菩提寺となりました。
「本堂… 続きを読む
「隠れキリシタン」タグアーカイブ
長崎県長崎市 日本二十六聖人殉教地
豊臣秀吉は織田信長の政策を継承し、
キリスト教の布教を容認しており、
イエズス会に布教の許可を与えていましたが、
天台宗の僧で医師の施薬院全宗の進言を受け、
バテレン追放令を発布しました。
しかし秀吉は積極的に追放は行わず、
貿易の為に継続してイエズス会を利用。
イエズス会も大々的な布教活動は控え、
ささやかな布教に終始した為。
追放はされる事無く布教も黙任され、
時には支援も行われたようです。… 続きを読む
長崎県南島原市 原城跡
吉田松陰は九州遊学の際、
原城跡を訪問しています。
原城は島原の乱の籠城戦が行われた城で、
両軍で4万の死者を出す激戦が行われ、
一揆勢の皆殺しで終結した戦いでした。
山鹿流兵学師範であった松陰は、
古戦場を見学する事で、
自らの兵学の糧にしたのでしょう。
島原天草の乱は江戸時代初期の反乱で、
キリシタン弾圧に起因した一揆で、
幕末以前で最後の本格的な内戦でした。
島原藩主松倉勝家… 続きを読む
長崎県東彼杵郡 彼杵宿跡
彼杵宿は長崎街道の宿場町で、
嬉野宿との間には難所俵坂峠が控えており、
※佐賀藩領と大村藩領の藩境。
平戸往還との追分でもあった他、
彼杵湊からの海路も整っていた事から、
大変に栄えた宿場町でした。… 続きを読む
下関市豊田町 毛利秀包夫人引地君の墓
小早川元包の正室で元鎮の母である引地君は、
豊後の戦国大名大友宗麟の末娘。
父同様に洗礼を受けたキリシタンで、
洗礼名はマセンシアであったという。
久留米城主となった小早川秀包に嫁ぎ、
秀包もその影響を受けて洗礼。
久留米城下に天主堂… 続きを読む