乾亨院の隣にある「中の館児童公園」は、
水ヶ江城の東の館跡とされます。
東の館跡ですが公園名が中の館なのは、
一帯の地名が「中の館町」である為。
※水ヶ江城は東から西に曲輪が連なり、
東から本丸にあたる本館、東の館、
中の館、西の館に分かれていました。
この東の館で龍造寺隆信が誕生しました。

「龍造寺隆信公碑」。
中の館児童公園の中央付近に建つ巨大な石碑。
龍造寺隆信の誕生地を示しています。
隆信は龍造寺家兼の孫龍造寺周家の長男で、
幼少期より宝琳院に預けられて、
大叔父の豪覚和尚に養育されていました。
7歳で出家して寺僧となりましたが、
優れた知識を持っていた他に、
人並以上の腕力の持ち主だったという。
天文14年(1545)に祖父龍造寺家純、
父龍造寺周家が馬場頼周に誅殺され、
曽祖父家兼と共に筑後の蒲池家に匿われ、
家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵。
頼周を討って龍造寺家を再興しますが、
家兼は高齢の為に死去してしまい、
隆信は還俗して龍造寺家当主となります。
九州にも勢力を伸ばす大内義隆と手を結び、
更に勢力を拡大していますが、
義隆が大寧寺の変で陶晴賢に討たれると、
後ろ盾を失った為に肥前国を追われますが、
再び蓮池家の援助を得て挙兵。
勢力を拡大して主家の少弐氏を滅ぼし、
後に肥前国の統一に至りました。
更に肥後国に勢力を伸ばして諸勢力を蹂躙。
しかし天正12年(1584)の沖田畷の戦いで、
大軍を率いて有馬・島津連合軍と戦い、
挟撃されて討ち取られてしまっています。
「隆信公胞衣塚」。
隆信の胎盤が納められてる胞衣塚。
児童公園の北西角にあります。
当ブログでは戦国武将も扱いますが、
基本的に幕末まで続く大名家の先祖とし、
滅びた大名家は扱わないつもりながら、
鍋島家は龍造寺家より領地を継承しており、
一応は引き継いだカタチになっています。
この為に佐賀藩を語る上で不可欠な為、
龍造寺家もこれに準じて扱いました。
■関連記事■
・佐賀県佐賀市 乾亨院/官軍墓地
水ヶ江城の本館跡にある寺院。
・佐賀県佐賀市 佐賀城跡
佐賀藩鍋島家の居城跡。
・長崎県諫早市 天祐寺/諫早家墓所
龍造寺家の分流諫早家の歴代墓所。
