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つづき。
本丸跡から大手門跡へ。
※西ノ門跡より散策を開始しています。
「大手門跡」。
小倉城の正門にあたる大手門跡。
細川忠興が小倉城を築城した当時は、
現在の西ノ門跡が大手門でしたが、
小笠原家の時代にこちらに編網されました。
大手門から北東側へ。
「天守(東側)」。
大手先門があった辺りからの天守。
天守は城のお飾りのようなものですが、
九州の諸街道の始点であった小倉においては、
非常に重要であったと思われます。
その証拠ではありませんが、
天保8年(1837)に火災で天守が焼失した後は、
「御三階」と呼ばれた事実上の天守が建てられ、
その威厳をなんとか保っていました。
「小倉城庭園(入口)」。
御下屋敷と称されていた藩主別邸跡を、
小倉城庭園として復元したもの。
江戸時代の典型的な武家書院を再現し、
茶室や展示棟を備えています。
「小倉城庭園(庭園内)」。
元々細川家家老松井康之の屋敷だった場所で、
後に小笠原忠真が小倉藩に入封すると、
家老の宮本伊織と小笠原主水が敷地を二分し、
それぞれの屋敷が建てられたようです。
やがて5代藩主小笠原忠苗の時代に、
藩主別邸として屋敷が新たに建設されて、
現在のような大名庭園が整備されました。
屋敷は天守の麓に位置したことから、
「御下屋敷」と呼ばれていたようで、
藩主が和歌や茶道を楽しんだり、
客に茶を振舞ったりしていたようです。
御下屋敷は慶応2年の小倉戦争で消失しますが、
明治以降も庭園は残されたようで、
小倉城が陸軍の司令部となってからも、
師団長官舎や軍の保要所として存続。
平成10年に小倉城庭園として整備されました。
「八坂神社」。
北ノ丸跡に鎮座する八坂神社。
元和3年(1617)に細川忠興により、
鋳物師町に南殿北殿のある祇園社が建立。
南殿に長尾の祇園社を移鎮させ、
北殿には三本松の祇園社を移鎮させました。
これを小倉藩の総鎮守として庇護し、
京都の祇園祭を模して小倉祇園太鼓が行われ、
小倉の伝統行事として続けられています。
維新後の神仏分離令で八坂神社に改称し、
昭和9年に北ノ丸跡に移鎮。
現在に至っています。
「八坂神社拝殿」。
小倉祇園太鼓は「無法松の一生」でも登場。
阪東妻三郎や三船敏郎が無法松を演じ、
全国的にも知られています。
本殿は上記したように2つの祇園神が祀られ、
南殿と北殿の双殿となっており、
祇園社としては非常に珍しいもの。
「八坂神社東楼門」。
北側からの入口にある東楼門。
それ程古いものではないようですが、
リバーウオーク側の入口である為、
八坂神社の顔になっている立派な楼門です。
八坂神社の北側の建物群は城跡を意識してか、
神社的ではなくお城の建物のようです。
これは決して歴史的な建物ではありませんが、
こういう雰囲気作りは大切だと思います。
「リバーウォーク北九州(ニノ丸跡)」。
商業施設リバーウォーク北九州のある場所は、
二ノ丸のあった場所。
一門家や家老家の屋敷が並んでいたようです。
細川忠興は関ヶ原の戦いの功績により、
豊前一国他、計39万9000石を拝領。
中津城に入ってこれを治めますが、
大大名の居城として小倉城を築城し、
慶長7年(1602)に藩庁としました。
細川家は2代細川忠利の代に熊本藩に移り、
代わって小笠原忠真が15万石で入封。
以後は小笠原宗家が藩主家として続きます。
九州の玄関口である小倉の抑えとして、
更に長州藩毛利家の監視の役割を担い、
非常に重要な立場でした。
幕末期にも激化する長州藩を監視し、
長州征伐では小倉口の先鋒となって出陣。
直接と戦火を交える事となりますが、
長州藩の先制攻撃によって領地は侵され、
小倉城を奪われてしまいます。
小倉藩勢は香春まで退いて抗戦しますが、
他の戦線で次々と停戦が成立した為、
小倉藩も慶応3年に講和を締結。
引き続き城下は長州藩の占領下に置かれ、
藩庁の移転を余儀なくされます。
香春御茶屋を仮藩庁とした後、
明治2年に藩庁を豊津に正式に移転。
豊津陣屋を建設して豊津藩となりました。
●日本100名城
【小倉藩→香春藩→豊津藩】
藩庁:小倉城→香春陣屋→豊津陣屋
藩主家:府中小笠原宗家
分類:15万石、譜代大名
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・福岡県北九州市 福聚寺/小倉小笠原家墓所
小倉小笠原家の菩提寺。
・福岡県田川郡 御茶屋香春藩庁跡
香春の御茶屋を仮藩庁としました。
・福岡県京都郡 小笠原神社/豊津陣屋跡
最終的に藩庁と定めた豊津陣屋。
・福岡県北九州市 小倉城
前回の訪問記事。
