恩地トミの口述筆記①

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恩地トミが明治25年に中山邸で、
中山家26代当主中山孝麿に対して、
叔父の中山忠光について語った内容を、
口述筆記したものがあります。


故忠光朝臣京都ヲ脱シ、
長門御潜匿中妾トセラレタル。
恩地與兵衛妹トミ明治廿五年七月東上参殿ノ折、
同朝臣ノ長門ニ投シ薨去セラレタル始終、
孝麿公親シク御尋アリシ其答辞ヲ記ス、
 故中山忠光朝臣が京都を脱し、
 長門御潜伏中にとされた、
 恩地與兵衛の妹トミが、
 明治25年7月の東上参殿の折に、
 同朝臣が長門に投じ亡くなるまでの終始を、
 孝麿公が親しくお尋ねされた内容を記す。

 ※トミが恩地與兵衛の妹となっていますが、
  公式に恩地與兵衛の次女となってます。
  これは多分次代の與兵衛の事で、
  トミの兄が與兵衛の名を継いだのでしょう。


一 忠光朝臣再ヒ京都ヲ脱シ
(文久三年八月十四日履歴書ニ載ス)、
大和ニ兵ヲ挙ケ幕兵ノ為ニ敗ラレ、
大坂長州藩邸ニ潜ミ(大和錦ニモ載ス)、
 忠光朝臣は再び京都を脱して
 (文久3年8月14日の履歴書に掲載する)、
 大和に兵を挙げて幕府の兵に敗れて、
 大坂長州藩邸に潜伏し(大和錦にも掲載)、


夫ヨリ長門馬関竹崎町本陣白石庄三郎方ヘ、
投宿セラル然ルニ長防ニ国ノ士民、
恭順激論ノ二党ニ分レ人心悩々動モスレハ、
忠光朝臣ニ危害ヲ加ヘント欲スル徒アリ、
 それより長門国馬関竹崎町本陣
 白石庄三郎(白石正一郎)方へ投宿されたが、
 防長二国の市民は恭順激論の二党に分かれ、
 人心は揺らぎややもすれば、
 忠光朝臣に危害を加えようとする輩もあり、

 ※白石の名を間違えていますし、
  白石家は本陣ではありません。


長藩士日下玄瑞ナル者君一旦長門ヲ去リ、
馬関ヨリ乗舩肥前大村ニ渡ランコトヲ勧告シ、
纜ヲ解カル適舩難風ニ遭ヒ、
肥前ニ達スルヲ得ス、馬関ニ帰港セラレヌ、
 長州藩士久坂玄瑞という者が、
 君が一旦長州を去って馬関より船に乗り、
 肥前国大村に渡られるように勧告したが、
 出港の際に暴風に遭い肥前には行けず、

 馬関に帰港された。
 ※口述なので久坂が日下となっているのは、
  ありがちな間違いでしょう。


白石庄三郎方ヘ拠ル同人弟大庭伝七ナル者、
長門豊浦郡府中ノ城主毛利左京亮家臣ナルヲ
以テ、忠光朝臣御寄寓ノコトヲ主人ヘ陳述シ、
承諾スル所ト為リ(此時長門本藩ノ指揮歟専ラ
府中藩ノ関係トナリシ趣)
 白石庄三郎(白石正一郎)方ヘ戻ると、
 同人の弟大庭伝七という者が、
 長府藩の城主毛利左京亮の家臣で、
 忠光朝臣が潜伏中であると主君に陳述し、
 これを承諾する所となり(この時長州本藩
 指揮より長府藩の関係となった)、


忠光朝臣ヲシテ左京亮家来井上庄助家宅ヘ、
迎ヘ移シ続テ延行村ノ地ヲ卜シ、
新ニ家屋ヲ建築シ御移住ノコトト為ス、
而シテ府中藩士江尻半右衛門夫婦外ニ、
姓不知直記(現今豊浦郡住吉神社祠官国司直記ノ
コト歟)ナル者ヲ扈従セシム、
 忠光朝臣を左京亮家来井上庄助家宅ヘ迎え、
 続いて延行村に新たに家屋を建築して、
 御移住して頂いた。
 そして府中藩士江尻半右衛門夫婦の他に、
 姓は知らない直記(現住吉神社祠官国司直記)
 なる者を付き従わせた。

 ※トミは直記と呼んでいたのか?
  というより忠光が直記と呼んでいて、
  それを覚えていたのかもしれません。


つづく。
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