①/②/③/④
つづく。
「常盤通り」と「相生通り」の交差点まで戻り、
南側(南東)の道を進む。
「満舟寺の石垣」。
高台にある満舟寺の立派な石垣。
御手洗は江戸時代に発展した港町で、
それ以前は軍事施設があったとされます。
来島村上氏の海関があったとされ、
周辺海域で何度も海戦が行われて、
加藤清正も出城を築城したとのこと。
この石垣は「乱れ築き」という技法の為、
何らかの軍事施設だったのだという。
石垣の下は江戸中期まで海岸線で、
埋め立てによって陸地になっています。
「満舟寺本堂」。
立派な石垣の割に小さな本堂。
満舟寺の縁起には諸説ありますが、
確実な記録によれば享保3年(1713)に、
観音堂が建てられたようで、
御手洗に寄港する廻船の寄進により、
段々と寺院の規模になったとのこと。
掲げられた額は琉球使節の筆で、
文化3年(1806)に17代尚灝王が即位し、
その謝恩使として江戸上がりした際、
帰路に御手洗に寄港していますが、
同行した中山楽師梁光地がこれを揮毫。
これを俳人栗田樗堂が額として制作し、
文化12年(1815)に奉納したもの。
境内にはその栗田樗堂の墓があります。
「樗堂墓」。
俳人栗田樗堂の墓。
正岡子規が近世伊予第一の俳人と称した俳人。
樗堂は伊予国松山で造酒業を営んだ商人で、
町方大年寄を長く務めていた人物。
若い頃から俳諧に親しんだ風流人で、
後に「俳句王国」と呼ばれた松山の、
文化的土壌を育んだ人物のひとりであり、
小林一茶との親交も深かったとされます。
隠居後に終の棲家として御手洗に移り住み、
晩年を風流人として過ごしました。
上記の額は生前に依頼されたものでしたが、
その完成を待たずに文化11年(1814)に死去。
満舟寺を下りて南に進むと、
旧御手洗小学校のグラウンドがあり、
そこから「おいらん公園」へ。
「志士星野文平碑」。
「おいらん公園」への登り口にある碑。
星野文平は御手洗の医師星野良徴の子で、
幼少期より福山藩藩儒江木鰐水に学び、
後に江戸に出て塩谷宕陰に学びました。
帰郷後に広島藩の学問所教授となりますが、
尊皇攘夷思想の志篤く上京を決意し、
同志船越洋之助、山田十竹と脱藩を計画。
しかし2人は藩命で上京を果たした為、
これに憤慨して腹を切っており、
その志を買われて上京を許されています。
京都では諸国の志士と交わり、
藩の蒸気船の購入交渉を担当しますが、
切腹の傷が悪化して死亡しました。
階段を登って「おいらん公園」へ。
「おいらん公園」。
弁天社辺りの急斜面の工事の際に、
※弁天社は御手洗の北西端にある神社。
今回は訪問していません。
遊女らの墓碑が100基余り発掘された為、
それらを集めて供養を行った場所で、
「おいらん公園」と称されています。
無数の遊女の墓碑か並ぶ様子は圧巻。
「火の車の塔」。
茶屋を経営した若蛭子屋多兵衛と、
その縁者である富田屋平兵衛が
先祖を回向する為に建立した供養塔。
この塔には別の話も伝わっています。
町の人々が月待ちの宴を開いていた際、
突如鬼が曳いた火の車が現れて、
髪結い和助を乗せて走り去りました。
慌てて和助の家に行ってみると、
案の定既に亡くなっていたという。
この塔は和助の回向の為に建てられ、
「火の車の塔」と呼ばれたとのこと。
遊女は貧しい境遇から売られた娘で、
自由もなく労働も過酷であり、
悲惨な運命を背負っていたと思われます。
しかし当時の御手洗の人々は、
遊女らを大切に接していたとのこと。
町の発展は遊女あっての事でしょうし、
そういう事もあり得る事でしょう。
それでも遊女達が少しでも安らげたのなら、
僅かでも救われたのだろうと思います。
■港町
つづく。
①/②/③/④
■関連記事■
・広島県福山市 鞆の浦
古くから栄えた潮待ちの港町。
・兵庫県神戸市 兵庫津
古くから貿易で栄えた港町。
・兵庫県たつの市 室津①
北前船や参勤交代船の寄港地。
