広島県呉市 御手洗③

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つづく。

常盤通り」と「相生通り」の交差点まで戻り、
南側(南東)の道を進む。


満舟寺の石垣」。
高台にある満舟寺の立派な石垣
御手洗は江戸時代に発展した港町で、
それ以前は軍事施設があったとされます。
来島村上氏海関があったとされ、
周辺海域で何度も海戦が行われて、
加藤清正も出城を築城したとのこと。
この石垣は「乱れ築き」という技法の為、
何らかの軍事施設だったのだという。
石垣の下は江戸中期まで海岸線で、
埋め立てによって陸地になっています。


満舟寺本堂」。
立派な石垣の割に小さな本堂
満舟寺の縁起には諸説ありますが、
確実な記録によれば享保3年(1713)に、
観音堂が建てられたようで、
御手洗に寄港する廻船の寄進により、
段々と寺院の規模になったとのこと。
掲げられた琉球使節の筆で、
文化3年(1806)に17代尚灝王が即位し、
その謝恩使として江戸上がりした際、
帰路に御手洗に寄港していますが、
同行した中山楽師梁光地がこれを揮毫。
これを俳人栗田樗堂が額として制作し、
文化12年(1815)に奉納したもの。

境内にはその栗田樗堂の墓があります。

樗堂墓」。
俳人栗田樗堂の墓。
正岡子規近世伊予第一の俳人と称した俳人。
樗堂は伊予国松山造酒業を営んだ商人で、
町方大年寄を長く務めていた人物。
若い頃から俳諧に親しんだ風流人で、
後に「俳句王国」と呼ばれた松山の、
文化的土壌を育んだ人物のひとりであり、
小林一茶との親交も深かったとされます。
隠居後に終の棲家として御手洗に移り住み、
晩年を風流人として過ごしました。
上記の額は生前に依頼されたものでしたが、
その完成を待たずに文化11年(1814)に死去。

満舟寺を下りて南に進むと、
旧御手洗小学校のグラウンドがあり、
そこから「おいらん公園」へ。

志士星野文平碑」。
「おいらん公園」への登り口にある碑。
星野文平は御手洗の医師星野良徴の子で、
幼少期より福山藩藩儒江木鰐水に学び、
後に江戸に出て塩谷宕陰に学びました。
帰郷後に広島藩学問所教授となりますが、
尊皇攘夷思想の志篤く上京を決意し、
同志船越洋之助山田十竹と脱藩を計画。
しかし2人は藩命で上京を果たした為、
これに憤慨して腹を切っており、
その志を買われて上京を許されています。
京都では諸国の志士と交わり、
藩の蒸気船の購入交渉を担当しますが、
切腹の傷が悪化して死亡しました。

階段を登って「おいらん公園」へ。

おいらん公園」。
弁天社辺りの急斜面の工事の際に、
※弁天社は御手洗の北西端にある神社。
 今回は訪問していません。

遊女らの墓碑が100基余り発掘された為、
それらを集めて供養を行った場所で、
「おいらん公園」と称されています。
無数の遊女の墓碑か並ぶ様子は圧巻。


火の車の塔」。
茶屋を経営した若蛭子屋多兵衛と、
その縁者である富田屋平兵衛
先祖を回向する為に建立した供養塔。
この塔には別の話も伝わっています。
町の人々が月待ちの宴を開いていた際、
突如鬼が曳いた火の車が現れて、
髪結い和助を乗せて走り去りました。
慌てて和助の家に行ってみると、
案の定既に亡くなっていたという。
この塔は和助の回向の為に建てられ、
「火の車の塔」と呼ばれたとのこと。

遊女は貧しい境遇から売られた娘で、
自由もなく労働も過酷であり、
悲惨な運命を背負っていたと思われます。
しかし当時の御手洗の人々は、
遊女らを大切に接していたとのこと。
町の発展は遊女あっての事でしょうし、
そういう事もあり得る事でしょう。
それでも遊女達が少しでも安らげたのなら、
僅かでも救われたのだろうと思います。

港町

つづく。
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