國泰寺は西区己斐上にある曹洞宗寺院。
元々は広島城下中町にあった大寺院で、
広島藩主浅野家の墓所も営まれ、
藩主菩提寺として大きな庇護を受けました。
國泰寺は原爆爆心地から約500mの位置にあり、
その爆発によって全壊全焼してしまい、
市街から大茶臼山西麓に移転しています。
中町には元々臨済宗の霊仙寺があったとされ、
これを安国寺恵瓊が大規模改修を行い、
寺名を安国寺と改めたことに始まるという。
その後に福島正則の実弟嫰桂琳英が入り、
曹洞宗に改宗させて国泰寺と改称してます。
「本堂」。
昭和53年に再建された立派な本堂。
伝統的な仏教建築の意匠ながら、
再び消失したり倒壊したりしないように、
鉄筋コンクリートで造られました。
墓地は本堂の南西側の斜面に広がり、
広島平和霊園と隣接しています。
墓地の一番高い位置にある一区画に、
古い墓石が集められています。
奥に「浅野家墓域」の立看板がありますが、
付近には墓は全く建てられていません。
戦前あった浅野家の墓所は國泰寺を離れ、
浅野山墓地に改葬されていますので、
国泰寺には藩主の墓はないようです。
但し藩主の墓は無くなったものの、
一族や家臣の墓はここに改葬されており、
意外な墓が改葬されていました。
「儀正院殿松雲洞岩禪定門」。
浅野左衛門佐知近(氏重)の墓。
知近は浅野長政実兄浅野氏次の子で、
浅井家において浅井忠吉と並ぶ高位にあり、
3万石の知行を有していました。
しかし知近は浅野家の安芸移封の際に、
三原城代の地位を望みましたが、
初代藩主浅野長晟はこれを受け入れず、
代わりに三次3万石を与えた事で対立。
玄和5年(1619)に上意討ちされています。
その子らも切腹の処分を受けており、
上意討ちならば罪人の筈なのですが、
これ程の巨大な墓が建てられたのは不思議。
「壽永院慶屋泉餘禅定尼」。
こちらは三原浅野家2代浅野忠長の母で、
上記の浅野知近の娘とのこと。
小さく墓碑銘か刻まれていますが、
その文章には忠長が深く悲しむ様子や、
賢母であった様子などが語られてます。
知近は三原城代にはなれませんでしたが、
その孫が後に三原城代となっており、
知近の望みが叶えられたようです。
他にも広島藩重臣の墓碑がありますが、
各被葬者についてはよく判りません。
これらは破壊を免れたものなのでしょう。
更に大石家の墓や安国寺恵瓊、
太閤豊臣秀吉の遺髪墓もありますが、
これは別記事と致します。
つづく。
■関連記事■
・広島県広島市 國泰寺跡
原爆投下以前に國泰寺があった場所。
・広島県広島市 安国寺不動院
もうひとつの安芸安国寺。
・広島県三原市 宗光寺/浅野忠長墓所
三原にある浅野忠長の墓所。
