清涼寺は嵯峨釈迦堂にある浄土宗寺院。
嵯峨天皇の仙洞御所であった当地を、
十二皇子の源融に下賜されて、
その別荘栖霞観が建てられました。
源融は阿弥陀三尊像を造らせますが、
完成に間に合わずに死去してしまい、
その息子によって三尊像が祀られ、
棲霞寺が創建されます。
後に重明親王妃が釈迦堂を建立し、
等身大の釈迦如来像を安置。
更に東大寺の僧奝然が宋で釈迦像を造らせ、
愛宕山麓に大寺院の建立を計画しますが、
比叡山に阻まれて志半ばで死去。
その遺志を継いだ弟子の盛算によって、
釈迦堂に宋の釈迦像が安置され、
寺名は清凉寺に改められました。
華厳宗でしたが天台宗、真言宗を兼ね、
更には融通念仏との結びつきもあり、
次第に融通念仏宗の道場となりますが、
享禄3年(1530)に円誉が入った後には、
浄土宗の寺院となっています。
寛永14年(1637)の嵯峨大火により、
本堂以下の伽羅は全て灰燼に帰しており、
その建物は以降の再建とのこと。
「仁王門」。
二重楼閣の仁王門。
天明4年(1784)に再建されたもの。
この門から南に進むと渡月橋に至ります。
「本堂」。
元禄16年(1703)再建の本堂。
徳川綱吉及び桂昌院の発願により、
住友家4代住友吉左衛門友芳が再建したもの。
本尊釈迦如来立像は国宝に指定されたもので、
奝然が宋より持ち帰った「生身の釈迦」。
「阿弥陀堂」。
文久3年に再建された阿弥陀堂。
源融発願の阿弥陀三尊像や、
木造兜跋毘沙門天立像が祀られましたが、
現在は霊宝館に収蔵されており、
聖徳太子像等が安置されているとのこと。
「一切経蔵」。
明治18年に再建された一切経蔵。
奝然が持ち帰った明版の一切経を納め、
中央には輪蔵を備えており、
正面には傅大士父子像が置かれています。
「多宝塔」。
元禄13年(1700)に江戸の老若貴賤が、
護国寺の出開帳で寄進したことにより、
元禄16年(1703)に再建さています。
「奝然上人墓」。
開基とされる奝然上人の墓。
東大寺の僧でしたが宋に渡り、
多くの経典や釈迦如来像を持ち帰りました。
清凉寺の建立を志しますが、
その建立を果たせずに入滅しています。
「嵯峨天皇の宝篋印塔(右)」、
「壇林皇后の石層塔(左)」。
52代嵯峨天皇の墓と壇林皇后の墓。
幕末期まで御陵と思われていましたが、
供養塔若しくは遺髪墓のようです。
嵯峨天皇の御陵は嵯峨山上陵。
「源融墓」。
嵯峨天皇第十二皇子源融の墓とされる宝篋印塔。
臣籍降下して源氏となっており、
源氏物語の光源氏のモデルともされ、
「小倉百人一首」にも選定されています。
※「14番 河原左大臣」.。
但し恒寂法親王の墓という説もあるらしい。
「秀頼公首塚(中央)」、
「大阪の陣諸霊供養碑(左)」。
豊臣秀頼は清涼寺本堂の造営を行っており、
清涼寺とは縁が深い人物。
昭和55年に大阪城で発掘された頭蓋骨が、
秀頼の首であるとされた為、
昭和58年にここに埋葬したとのこと。
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