京都府京都市 二尊院/二條家墓所①

二尊院墓地にある二條家の墓所。
二條家は左大臣九條道家の次男二條良実が、
二条京極に住居して興した事に始まります。
近衛家、九條家、一條家、鷹司家と共に、
公家最高位「摂家」として摂政、関白を務め、
大きな権威を持ち続けていました。


「二条家墓所」。
二條家の墓所は湛空上人廟の参道石段の左右。
広い墓域に宝筐院塔等の墓石が並びます。


「敬信院入道前殿下圓覺尊儀」。
二條家18代当主二条綱平の墓。
九條家20代九條兼晴の次男に生まれ、
17代二條光平の養子となって家督を相続。
順調に出世して左大臣や関白を務めて、
幕府とも良好な関係を構築しました。
絵師尾形光琳等の庇護者でもあり、
芸術への理解が深かったとされています。


「安詳院前殿下 尊儀」。
二條家19代当主二條吉忠の墓。
吉忠は18代綱平の長男として生まれ、
その家督を相続して関白も務めますが、
元文2年(1737)に僅か1年強の在任で死去。


「常觀喜院前丞相 尊儀」。
二條家20代当主二條宗熈の墓。
宗熈は吉忠の長男として生まれ、
父と共に昇殿して右大臣まで昇進しますが、
父の死の翌年に病死しています。

家督は娘婿二條宗基が21代を相続しますが、
その宗基の墓は見当たりません。
※同所の別の場所にありました。


「維則院前右大将 尊儀」。
二條家22代当主二條重良の墓。
重良は21代宗基の次男として生まれ、
右近衛大将となっていますが、
明和5年(1768)に18歳で死去しました。


「従一位前左大臣藤原朝臣治孝公墓」。
二條家23代当主二條治孝の墓。
治孝は21代宗基の三男として生まれ、
早世した兄重良の家督を継ぎました。
左大臣にまで昇進しましたが、
119代光格天皇より関白は「非器」と評価され、
関白就任には至っていません。
文政9年(1826)、死去。

24代二條斉通、25代二條斉信の墓も見当たらず。
※こちらも同所の別の場所にありました。
 これらについては21第と共に別記事とします。
 京都府京都市 二尊院/二條家墓所②


「従一位二條齊敬公墓」。
二條家26代当主二條齊敬の墓。
齊敬は25代斉信の次男として生まれ、
母が徳川斉昭の姉従子である為、
最後の将軍徳川慶喜の従兄にあたります。
将軍宣下の使者として江戸に下向した際、
大老井伊直弼に面会を求めた為、
安政の大獄で処分を受けて謹慎。
公武合体派に属し攘夷派公卿と対立し、
長州藩や過激派公卿の追放を画策し、
八月十八日の政変を成功させており、
同年に左大臣、関白に就任しました。
親幕派として孝明天皇を補佐し、
幕末の諸問題の政務に対応しますが、
廷臣二十二卿列参事件で辞表を奉呈。
この辞意は認められませんでしたが、
同年に孝明天皇が崩御してしまい、
明治天皇が践祚した後も関白のままで、
王政復古の大号令を迎えました。
天皇親政の宣言により関白は廃止され、
齊敬は史上最後の関白となっており、
賀陽宮朝彦親王と共に参朝を停止。
以後は朝議に参与していませんが、
明治2年の明治天皇の東京行幸の際には、
大宮御所御用掛を務めています。
明治11年、死去。

27代基弘、28代厚基の墓もありましたが、
明治期以降の当主なので割愛します。


「二條家蔵跡(二條家合葬墓)」。
墓域にあるコンクリート製の集合墓。
17代以前の歴代当主や一族や、
ここに入っていると思われます。
二条家は初代良実より、
2代師忠、3代兼基、4代道平、5代良基、
6代師良、7代師嗣、8代満基、9代持基、
10代持通、11代政嗣、12代尚基、13代尹房、
14代晴良、15代昭実、16代康道、17代光平、
18代綱平、19代吉忠、20代宗熙、21代宗基、
22代重良、23代治孝、24代斉通、25代斉信、
26代斉敬、27代基弘、28代厚基と続き、
以降も続いているようです。
※前記したように21、24、35代の墓は、
 同所の別場所にあります。


更に北に行くとある男爵二条家の墓。

「男爵 二條家之墓」。
男爵二條家は26代二條齊敬の四男で、
分家した二條正麿が興した男爵家。
ドーム型の上に五輪塔が建てられています。

【公家の墓所】

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