瓊瓊杵尊の御陵は可愛山陵と治定されますが、
男狭穂塚陵墓と北川陵墓が参考地として、
宮内庁の管轄地となっています。
瓊瓊杵尊の御陵は日本書紀によると、
[筑紫日向可愛山之山陵]となっており、
これは可愛岳… 続きを読む
宮崎県延岡市 北川陵墓参考地
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瓊瓊杵尊の御陵は可愛山陵と治定されますが、
男狭穂塚陵墓と北川陵墓が参考地として、
宮内庁の管轄地となっています。
瓊瓊杵尊の御陵は日本書紀によると、
[筑紫日向可愛山之山陵]となっており、
これは可愛岳… 続きを読む
明治10年8月15日。
和田越の戦いに敗れた西郷軍は、
長井村まで退却し児玉熊四郎宅に宿陣。
程近くに瓊瓊杵尊の御陵があり、
※北川陵墓参考地。
官軍が皇祖御陵に砲撃しないであろうと、
ここが選ばれたとされています。
「南州翁寓居跡」。
西郷が宿陣した児玉熊四郎宅跡で、
[… 続きを読む
江戸時代の大分市域には府内藩領の他、
熊本藩領、臼杵藩領、延岡藩領、岡藩領と、
4つの藩領と幕府領が入り混じっていました。
岡藩領は豊後(肥後)街道の今市宿付近と、… 続きを読む
現在は埋め立てられて痕跡もありませんが、
熊本藩鶴崎御茶屋から北へ行くと、
入江を利用した鶴崎の湊がありました。
「肥後藩主参勤交代時船着場跡」碑。
新堀公園内にある跡碑。
熊本藩の御座船[波奈之丸]の発着地は、
この公園辺りだったとのこと。
熊本藩主は熊本城を出発して、
豊後(肥後)街道を通って鶴崎まで陸路を使い、
ここから船で豊後水道から瀬戸内海… 続きを読む
毛利空桑は熊本藩の幕末期の儒者で、
熊本藩領鶴崎で私塾[知来館]を開設し、
文武両道と尊皇論を唱えました。
その門弟は890人以上であったとされ、
遠方からもその意見を問う人が絶えず、
吉田松陰や斉藤監物も空桑を訪ねています。
「… 続きを読む
慶長6年(1601)に熊本藩主加藤清正は、
瀬戸内海への航路確保の為に、
鶴崎を領地とすることを幕府に請願し、
豊後国大分郡、直入郡、海部郡が、
熊本藩の飛地となりました。
清正は熊本城… 続きを読む
松平忠直は福井藩2代藩主でしたが、
叔父にあたる2代将軍徳川秀忠と不仲で、
度重なる冷遇を受けて不満が募り、
次第に酒色に溺れて政務を疎かにし、
乱行を繰り返していました。
挙句に参勤まで拒否するに至った為、
怒った秀忠は忠直に隠居謹慎を命じ、
豊後の… 続きを読む