日本最後の仇討ちのお話。
秋月藩士臼井亘理は秋月藩兵と共に、
鳥羽伏見の戦いに従軍。
戦いが終わり情勢が沈着した5月に、
故郷の秋月に帰郷します。
京都の状況を藩主に伝えたのち、
自宅にて客を招いて酒宴を行ないました。
その夜、何者かが臼井家に押し入り、
亘理と妻を殺害。
3歳の娘も傷を負ってしまいます。
臼井六郎は幼く乳母と添い寝をしていた為、
この惨劇の難を逃れていました。
下手人は藩内尊攘派の干城隊士の、
仕業であることが判明。
臼井亘理は京都から帰郷後、
藩主に対して開国論を力説していますが、
これに尊攘派が激怒し殺害したようです。
しかし藩は、
「干城隊は無罪、臼井家は減禄に処す」
という非常に理不尽な裁定を下しました。
減録された臼井家で育った六郎はある日、
父の仇が一瀬直久であると知ります。
一瀬が一家で上京したことを聞き、
遊学を口実にして上京。
親戚の紹介で山岡鉄舟の内弟子となり、
撃剣を学びつつ敵討ちの時機を待ちました。
仇討の理由を書いた書面を肌身に付け、
何度も一瀬をねらいますが失敗。
しかしついに明治13年12月17日、
黒田長徳宅に訪問した一ノ瀬を尾行し、
その帰り道を狙い殺害しました。
六郎はその足で自首し、
裁判で終身禁獄の刑を宣告されますが、
その後の帝国憲法発布の恩赦で出獄。
妻を貰い大正6年に死去しています。
これが日本最後の敵討ちとなりました。
山岡鉄舟が間接的にも係っていましたが、
鉄舟は事件について、
「自分は人を殺す方法を教える剣客なので
六郎にも人を殺す方法を教えたが、
法律を犯してまで殺せとは教えていない」
と語ったという。
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