明治7年の台湾征伐や同10年の西南戦争、
更に同27年の日清戦争において、
西楽寺が負傷者の療養所となっていたという。
「西楽寺」。
彦島本村町にある時宗の寺院。
本尊の阿弥陀如来坐像… 続きを読む
「彦島」カテゴリーアーカイブ
四国連合艦隊の彦島租借要求
高杉晋作が下関戦争の休戦交渉において、
彦島租借要求を拒否した伝説があります。
しかしながらこの話は、
英国の外交記録やアーネスト・サトウの日記、
回想録等には全く記載が無く、
伊藤博文の回想で語られるのみで、
現在では信憑性は極めて薄くなっています。
結論から言うと、
伊藤の証言以外に記録には全く無いわけで、
これを絶対にあったとは断定は出来ない。
但しそれを持ってそんな訳がない… 続きを読む
下関市彦島 十二苗祖墳墓
かつて彦島は引島と呼ばれていいました。
約800年前の保元二年(1157)1月。
保元の乱に敗れて都落ちし、
河野通次が九州へ落ちのびようと、
※この通次は河野家系図に記載なし。
関門海峡を渡っていましたが、
夕日が引島の瀬に落ちかかって美しく、
これに打たれて夜露をしのごうと上陸。
翌朝に家臣らと共に島内を調べると、… 続きを読む
下関市彦島 福浦
福浦は北前船の寄港地として栄えた港町で、
南風泊と同じく風待ちの為に、
北前船の多くが福浦湾に入ってきて、
大変な賑わいであったという。
現在の福浦町は1~3丁目まであり、
福浦本町と通称される1丁目と、
福浦口交差点西側の2、3丁目とは、
1本道で繋がっているだけとなっています。… 続きを読む
下関市彦島 旧俎礁標
旧俎礁標は明治4年に設置された礁標で、
灯台技術者R.H.ブラントンが設計し、
海峡の岩礁を示していたもの。
当時は約6mの石塔が黒白で塗り分けられ、
頂部の球が据えられたものでしたが、
明治23年に昼夜灯の挂灯立標に改修され、
後に岩礁と共に撤去されて、
現在地に移転されて灯台となりました。
これが金ノ弦岬灯台で、… 続きを読む
下関市彦島海士郷町 身投げ岩
壇ノ浦の戦いで平家が敗れた為、
平家に仕えたの女官や雑仕女達は、
彦島の平家一門の住居跡や、
漁師の家に匿われて潜んでいましたが、
彼女達は源氏の兵士達の格好の餌食となり、
陵辱の限りを尽くしました。
多くは乱暴を受けた後に殺され、
命を助けられた者も自ら命を絶ったという。
彦島老町にある身投げ岩… 続きを読む
下関市彦島 竹の子島
彦島に竹の子島という小さな島があります。
吉田松陰の海防視察日記[廻浦紀略]では、
松陰がここに上陸して視察を行っており、
南風泊から小船で竹の子島に渡り、
壱之台、弐之台、六之台を巡視しました。
松陰は小船で渡りましたが、
現在は橋が架けられていますので、
車でそのまま上陸する事が出来ます。
※下関駅から直通のバスもあります。… 続きを読む