今山八幡宮は天平勝宝2年(750)に、
宇佐八幡宮(宇佐神宮)より勧請され創建。
土持家、高橋家、有馬家、三浦家、
牧野家、内藤家と歴代領主がら崇敬され、
社領を与えられていました。
「今山八幡宮」。… 続きを読む
「西南戦争」タグアーカイブ
宮崎県延岡市 山縣有朋中将陣頭指揮の地
西郷軍は8月15日早朝に和田越えに布陣し、
初めて自ら陣頭に立って指揮を行い、
北上する政府軍を迎え討ちますが、
対する政府軍参軍山県有朋中将も、
樫山山頂に陣を置いて全軍を指揮しました。
和田越決戦はまさに両陣営の総大将が、
直接激突した決戦となっています。
「山縣有朋中将陣頭指揮の地」。
樫山町交差点… 続きを読む
宮崎県延岡市 和田越決戦之地
和田越えは延岡市街北側にある標高42mの峠。
西南戦争での激戦地として知られます。
「和田越決戦之地」碑。
記念碑の建てられた古戦場跡。
8月15日早朝に西郷隆盛は諸将を従えて、
ここで督戦をしたとされており、
新政府軍を指揮する山縣有朋も、
樫山でこれを督戦したとされています。… 続きを読む
宮崎県延岡市 小倉處平加療の地
小倉処平は飫肥藩出身の秀才で、
郷党より「飫肥西郷」と称された人物。
西南戦争で飫肥隊を率いて戦い、
奇兵隊総軍監にもなっていますが、
和田越えの決戦で負傷してしまいました。
「小倉處平加療の地」。
決戦に敗れた西郷軍は長井村… 続きを読む
鹿児島県伊佐市 辺見十郎太涙松跡記念碑
明治10年6月20日。
大口の戦いに敗れた雷撃隊隊長辺見十郎太は、
敗走する際に池田の松並木で馬を止め、
高熊山を振り返り遠望しながら、
「死をとして固守すること四句あまり
ついに要害の地高熊山をクソ鎮に奪わる。
あぁ、わがことすでに終る」と、
松の木に持たれて無念の涙を流したという。
「辺見十郎太 … 続きを読む
鹿児島県伊佐市 薩軍無名兵士の霊碑
明治10年6月。
水俣の政府軍が大口へ侵攻しますが、
辺見十郎太率いる雷撃隊は、
これを迎え撃つ為に坊主石山に布陣。
6月18日に激しい戦闘が行われたようで、
雷撃隊は6月20日に撤退しています。
山之口霊苑という小さな墓地に、
雷撃隊の戦死者合葬碑があります。
「西南の役薩軍無名兵士無縁者之霊碑」。
雷撃隊の撤退後の坊主石山には… 続きを読む
鹿児島県伊佐市 熊本隊戦死者墓地
熊本士族池辺吉十郎は熊本隊を結成し、
西郷軍に参加して各地と転戦。
水俣から大口へ進軍する政府軍を抑える為、
辺見十郎太率いる雷神隊と共に、
人吉から大口へと移動しています。
明治10年5月4日。
水俣の政府軍… 続きを読む