田原坂は熊本と高瀬を結ぶ街道にある坂で、
西南戦争当時に野砲、山砲、臼砲等、
大型の輜重を運搬できる唯一の道でした。
この坂を巡って17日間の攻防が繰り返され、
官軍(政府軍)だけで1687人の戦死者を出し、
※薩軍(西郷軍)の正確な戦死者は不明。
西南戦争最大の激戦地だったとされます。
田原坂は山の尾根に沿っており、
熊本城の防衛の為に加藤清正によって、
整備されたとされています。
「田原坂 一の坂」。
田原坂は一の坂、二の坂、三の坂と、
3つの坂で構成されているようです。
当時の一の坂は畑が広がって見通しが良く、
二の坂、三の坂から見通しが悪くなり、
戦闘は二の坂以降で行われたとのこと。
「田原坂 二の坂」。
当時より雑木林があった二の坂周辺。
防衛側に有利な地形だったようで、
この坂を登る官軍兵は次々に狙撃され、
若い命を散らしました。
「西南之役戦没者慰霊碑」。
二の坂を登ると左手に現れる慰霊碑。
両軍の戦没者を慰霊するもの。
「伍長谷村計介戦死之地」碑。
谷村計介は熊本城を守っていた伍長で、
薩軍に包囲されて孤立化していた城内から、
密偵として派遣されて脱け出し、
二度薩軍に捕縛されるも脱走して、
高瀬の官軍本営で城内の実情を報告し、
援軍要請を伝えています。
本来ならばこれで彼の役目は終わりですが、
志願して田原坂攻略戦に参戦。
報告から2日後の3月4日に戦死しました。
「田原坂 三の坂」。
谷村計介戦死地から少し行くと三の坂。
薩軍は幾重にも陣を張り巡らして、
官軍の侵攻を妨げていたようです。
「田原坂公園」。
三の坂からそれ程離れていない頂上。
現在は田原坂公園となっており、
幾つかの慰霊碑や銅像、資料館が設置され、
激戦地だった場所を示しています。
「美少年像」。
田原坂公園のシンボルでもある美少年象。
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手に血刀 左手に手綱
馬上豊かな 美少年
民謡[田原坂(豪傑節)]に登場する美少年で、
村田新八の長男村田岩熊がモデルともされます。
当時岩熊は伝令を務めており、
馬に乗って木留本営に走ったという。
但し他にもモデルとされる少年兵は複数おり、
多くの少年兵が田原坂で戦っていた模様。
岩熊は田原坂の戦いを生き抜きますが、
後の植木の戦いで戦死しています。
「崇烈碑」。
明治13年建立の西南戦争の顕彰碑で、
西南戦争に関して国が建てた唯一のもの。
撰文と篆額は有栖川宮熾仁親王で、
書は秋月新太郎によるものです。
当初は白く輝く石だったようですが、
経年劣化で黒ずんでしまったとのこと。
「西南役戦没者慰霊之碑」。
西南戦争で戦死した官軍将兵6923名及び
薩軍将兵7186名、殉難者29名を慰霊する碑。
昭和32年に西南戦争80周年記念事業の一環で、
田原坂公園に建立されたもの。
後方には両軍戦死者の氏名が刻まれています。
「薩摩塚」。
戦国期に島津勢との闘いで戦死した者を、
葬った際の塚と伝えられるもので、
旧植木町役場入口交差点付近にありました。
西南戦争の際は薩軍兵約20名が、
住民の手で同塚に葬られたようで、
後に遺骨は遺族によって持ち帰られ、
昭和43年にここに移されています。
「熊本市田原坂西南戦争資料館」。
田原坂公園内にある資料館で、
田原坂の戦い及び西南戦争の資料を展示。
現代的で綺麗な資料館で、
内容も凝っていて良いと思います。
大人300円。
「弾痕の家」。
田原坂頂上にあった松下彦次郎家の土蔵で、
写真家上野彦馬や富重利平撮影の写真を基に、
昭和63年に復元したもの。
内部は博愛者及び日本赤十字社の資料館です。
現存したものかと思っていましたが、
写真を参考に復元したものなのですね。
西南戦争最大の激戦地とされる田原坂。
現在の我々にはその激戦の様子を、
想像するより他はありません。
西南戦争や田原坂の戦いは映像化され、
なんとなく判っていたつもりですが、
実際に行って歩いてみると、
もっと悲惨だったような気がします。
映像的にはハンバーガー・ヒルとか、
そういった絶望的な感じだったのでしょう。
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田原坂で負傷した後の内閣総理大臣。
