山口県山口市 寺内正毅墓所

山口県出身の総理大臣は8人。
初代総理大臣伊藤博文より、
令和4年に凶弾に倒れた安倍晋三まで、
全国最多の人数が知られます。
※出生地別では東京都がトップ。
これには色々と批判もありますが、
戦前はある意味仕方ないところです。
維新の雄である筈の鹿児島県は、
総理大臣3人と少ないのですが、
その代わり陸軍大将及び海軍大将は、
鹿児島県がトップとなっています。

今回訪れたのは山口出身の総理大臣で、
しかも元帥陸軍大将寺内正毅の墓所。
市街中心部から国道9号線を東に行き、
山口護國神社を越えたT字路の先に、
その墓所があります。

寺内家墓所」。
山の斜面に広く敷地の取られた墓所。
西側を向いているようですが、
単純に山手を背にして建てられた模様。


元帥陸軍大将伯爵寺内正毅之墓」。
寺内正毅は明治大正期に活躍した人物ですが、
戊辰戦争を戦った幕末の人物でもあります。
正毅は長州藩士宇多田正輔の三男に生まれ、
※音楽プロデューサー宇多田照實や、
 歌手の宇多田ヒカルの先祖。

同藩士寺内勘右衛門の養嗣子となりました。
多治比隊御楯隊に在籍したようですが、
初陣は戊辰戦争とされており、
箱館戦争時は18歳であったという。
維新後は陸軍に入隊して下士官となり、
西南戦争田原坂の戦いで負傷。
以後は右手が不自由になった為に、
実戦の指揮をする事を諦め、
戦略や軍政、軍教育の方面に進みます。
明治15年には閑院宮載仁親王に随員し、
フランスに留学して駐在武官となり、
帰国後はキャリアを積んで昇進を重ね、
日清戦争では大本営運輸通信長官に就任。
義和団の乱では現地で指揮を執りました。
第1次桂内閣で陸軍大臣となり、
第1次西園寺内閣第2次桂内閣でも、
陸軍大臣を務め大将に昇進。
第3代韓国統監も兼任しており、
日韓併合後は初代朝鮮総督に就任しています。
大正5年には元帥に任じられており、
18代内閣総理大臣にも就任。
ビリケン宰相と揶揄されましたが、
本人はこれを気に入っていたという。
大正7年の米騒動の影響で総辞職し、
翌年に死去しました。


元帥陸軍大将寺内壽一墓」。
正毅の長男寺内壽一の墓。
父と同じく陸軍の道を進んでおり、
最高位である元帥陸軍大将まで昇進。
彼は皇族以外の親子2代で、
元帥府に列せられた唯一の人物です。
南方軍総司令官として東南アジアで戦い、
終戦後にマレーシアで病死。

寺内家墓地より上へ登ると、
山崎陸軍墓地があります。

山崎陸軍墓地」。
大規模な招魂場のようですが、
日清戦争以降のもののようです。
戊辰戦争以降の戦死者と、
説明板には書かれていたのですが、
それらしき墓碑は見当たりませんでした。

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