伊藤博文は明治42年に暗殺され、
国葬の後に彼の別邸があった事から、
西大井に葬られる事となっています。
「大勲位伊藤博文公墓所」。
JR西大井駅から南西方向に行くとあります。
通常は非公開のようですが、
毎年秋に数日公開されるとのこと。
その期間を狙っての訪問はできませんので、
非公開とは知りつつも訪問致しました。
仕方ないので隙間から墓を撮影。
「従一位大勲位伊藤博文公墓」。
石造の円墳の前に鳥居を配した神式の墓。
隣には伊東梅子夫人の墓があるようですが、
こちらは見えませんでした。
伊藤は熊毛郡の百姓林十蔵の長男に生まれ、
出稼ぎで萩に住む父に呼ばれて萩に移住。
その父が中間水井武兵衛の養子となり、
武兵衛が足軽伊藤家の養子となった為、
十蔵、利助(博文の幼名)も足軽となります。
百姓として生まれ、父が中間に養子に入り、
養祖父が足軽に養子に入るという展開。
百姓から頂点へのサクセスストーリーは、
戦国時代の豊臣秀吉と同じですが、
やはり才能とは別に運もあったのでしょう。
松下村塾で尊攘思想に目覚め、
門下生らと共に尊皇攘夷運動に邁進。
長州五傑として英国に留学しますが、
四国艦隊の下関砲撃の情報を聞いて帰国し、
高杉晋作の功山寺挙兵にも参加しています。
新政府樹立後も周旋能力を活かし、
維新三傑亡き後の明治政府を支え、
後に初代内閣総理大臣に就任。
大日本帝国憲法発布、日清戦争、日露戦争、
そして初代統監就任と政府を牽引しますが、
ハルビンで安重根に暗殺されています。
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