山口県光市 伊藤博文記念公園

伊藤博文は熊毛郡の百姓林十蔵の長男で、
出稼ぎで萩に住む父に呼ばれて萩に移住。
その父が中間水井武兵衛の養子となり、
武兵衛が足軽伊藤家の養子となった為、
十蔵、利助(博文の幼名)も足軽となります。
百姓として生まれ、父が中間に養子に入り、
養祖父が足軽に養子に入るという展開。
百姓から頂点へのサクセスストーリーは、
戦国時代の豊臣秀吉と同じですが、
やはり才能とは別に運もあったのでしょう。

そして後に松下村塾で学んで、
門下生と共に尊皇攘夷運動に邁進。
尊攘志士らと共に活躍して幕末を生き残り、
明治の元勲の一人となるわけです。

その伊藤博文の故郷である光市に、
生家及び資料館等が保存整備されています。

旧伊藤博文邸」。
遠祖林淡路守通起の没後3百年を記念し、
明治43年に林一族及び伊藤家を集め、
法要を行った際に建設された建物。
伊藤自らが基本設計を行い、
建築が進められていましたが、
完成を待たずにハルピンで凶弾に倒れます。
平成16年に大規模な補修工事が行われ、
旧伊藤博文邸として公開されています。


伊藤博文公像」。
敷地内にこの像を含め2体の像があります。
旧伊藤博文邸の補修工事の際に、
これは建立されたもの。


伊藤公資料館」。
伊藤の資料遺品が展示されている資料館。
大礼服等の衣類や別荘で使用していた家具
念持仏などの愛用品の展示の他、
閲覧室記録映像等も上映しています。
大韓帝国皇太子を招待した際の映像では、
幼い皇太子が伊藤と手を繋いでいる様子も、
その映像の中に記録されており、
現在を鑑みると感じるものがあります。


伊藤公生家」。
伊藤の生家は萩移住の翌年に、
暴風雨で倒壊していますが、
大正8年に別の場所に復元されていました。
後にその復元された生家も老朽化した為、
平成3年に元あった場所に移転・復元され、
現在に至っています。


伊藤公産湯の井戸」と「産湯の水」。
生誕の地によくあるような産湯の井戸です。


伊藤博文座像」。
伊藤公資料館の裏手の丘にある座像。
ここには伊藤神社があったようで、
昭和34年に社殿の老築に伴い、
光市内の束荷神社に合祀されて解体され、
その跡地に座像が建立されています。

伊藤は初代内閣総理大臣ですが、
幕末期には小者の印象を持たれる事が多い。
吉田松陰高杉晋作久坂玄瑞など、
長州藩の大物の陰に隠れてしまっています。
伊藤が日本のトップに立ったのは、
彼ら大物の死によるところが大きいと、
方々で語られる事が多いのですが、
それはあまりにも浅い考察でしょう。

確かに長州藩の大物は若くして死を遂げ、
明治期は人材が小ぶりと評価されますが、
果たして本当にそうだったのでしょうか?
周りに認められてトップに立てたわけで、
伊藤は彼らが存命して維新を迎えていても、
結局は彼らのリタイヤと共に、
日本のトップに立ったと思われます。

幕末期も第一線で活躍していましたし、
明治初期もその周旋能力を活かしており、
三傑亡き後の政府を牽引した存在として、
初代総理大臣に指名されるべき人物でした。

大日本帝国憲法発布日清戦争日露戦争
そして初代統監就任と政府を牽引しますが、
ハルピンで安重根に暗殺されます。
韓国併合反対の立場の伊藤の死により、
大日本帝国は大韓帝国を併合。
隣国を配慮してか伊藤が主役の映像作品は、
僕の知る限り無い。
※もちろん脇役としては出てきます。
そろそろ伊藤を主役とした映像作品を、
出来るだけ史実に忠実に作り、
世界に発信させても良いとも思う。
もちろん女好きも包み隠さずに(笑)。

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