伊藤博文について。
千円札(C号券)にもなった初代内閣総理大臣。
一般には高杉晋作の舎弟のような印象ですが、
実際はどうだったのでしょう?
伊藤博文は天保12年に、
周防の百姓林十蔵の長男として生まれ、
幼名は利助といいました。
父十蔵が長州藩中間水井武兵衛の養子となり、
武兵衛が足軽伊藤弥右衛門の養子になって、
伊藤直右衛門と改名した為に、
父共々伊藤姓となりました。
百姓→中間→足軽と出世しましたが、
それでもまだ足軽。
足軽の子となった利助は円政寺に預けられ、
読書や習字を学んでいますが、
円政寺には晋作も学びに来ていました。
晋作と利助は2歳違い。
実際に机を並べていたかはわかりませんが、
晋作の生家はこの円政寺と目と鼻の先。
机を並べていなかったとしても、
顔は見知っていた事でしょう。
晋作は上士の子で気位も高く2歳も年上。
もし一緒に遊んでいたとしたら、
上下関係ははっきりしてたでしょう。
次に晋作と関係するのは松下村塾。
松下村塾には利助の方が先に入門しています。
とはいえ晋作が松下村塾に入門すると、
瞬く間に久坂玄瑞と並ぶ松門の双璧と呼ばれ、
門下の中で頭角を現します。
他の門下生も晋作を認めており、
松下村塾のリーダー的存在となります。
伊藤はそれを間近でみて、
「すげ~」と思ったことでしょう。
桂小五郎手附として江戸藩邸に働く利助は、
久坂や井上聞多らと尊王攘夷運動に奔走。
当時の長州藩論は長井雅楽主導の開国論で、
久坂らはこの状況を挽回する為に、
萩から晋作を江戸に召還します。
久坂や井上も晋作を頼りとしていました。
晋作は久坂の話を聞くなり、
「じゃあ斬ろう!」と即断します。
伊藤はそれを間近でみて、
「すげ~」と思ったことでしょう。
※暗殺計画自体はうやむやになっています。
上海遊学から江戸に帰った晋作は、
尊王攘夷運動のリーダー的存在となって、
御楯組首領となり英国領事館焼討を指揮。
長州藩は薩摩藩と違ってボスを立てず、
同志の集まりという趣旨で行動するのですが、
集団である以上リーダーが必要なわけで、
御楯組のリーダーは実質的に晋作でした。
久坂は後に京都で名を馳せるのですが、
この御楯組ではナンバー2です。
伊藤はそれを間近でみて、
「すげ~」と思ったことでしょう。
その後、奇兵隊創設、四カ国艦隊との交渉、
功山寺挙兵、小倉口の戦いと、
晋作の功績にほぼ脇役で登場。
後に俊輔、春畝、博文と改名していますが、
これらはすべて晋作の命名ともされます。
自分の名前を命名してもらうのは、
尊敬してない人からはしないでしょう。
元勲となった伊藤博文は晋作の事を、
[高杉君]、[高杉]と呼んでいます。
このことから晋作と伊藤博文は、
対等な立場と思われる事もありますが、
[君]は松蔭が[君と僕]の言い方を流行らせ、
それが先進とされていた時代でしたので、
皆も[君]付けで呼び合ってたのでしょう。
[高杉]と呼び捨てにしてるのは、
元勲となって自分の地位も上がったので、
あえて呼び捨てにしたと思われます。
※松下村塾講師を務めていた富永有隣も、
松蔭の死後に松蔭のことを[寅次郎]と、
呼び捨てにしています。
田中光顕は晋作に弟子にしてくれと頼み、
名刀を献上して弟子にしてもらっています。
晋作は(というより長州志士は)弟子を取らず、
晋作の弟子は田中光顕のみですが、
伊藤は晋作の舎弟の同様だったようで、
二人の間には緩やかな師弟関係が、
確実に存在したのでしょう。
「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、
衆目駭然、敢て正視する者なし。
これ我が東行高杉君に非ずや…」
伊藤の揮毫[高杉晋作顕彰碑]の碑文を読めば、
晋作の事を誇りに思っていたかわかります。
晋作と一緒に写る伊藤(右)。
伊藤の誇らしげな顔が印象的です。
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