
田中光顕について・・・
田中光顕は天皇親政派の宮廷政治家で、
幕末の頃は過激な尊皇攘夷活動に邁進した志士でした。
彼は晋作の唯一の弟子としても知られていますが、
晋作とどういう関係だったのでしょう?
田中光顕は幕末の当時「田中顕助」と呼ばれ、
武市半平太の土佐勤王党に参加していましたが、
土佐勤王党が弾圧されると顕助は謹慎処分となり、
脱藩して尊皇攘夷の雄藩である長州藩を頼ります。
長州藩は土佐勤王党の残党を受け入れこれを支援。
顕助も中岡慎太郎ら土佐脱藩浪士と共に匿われました。
晋作とはそこで出会います。
ある時、晋作・顕助・中岡の3名で談義も場が持たれ、
その席で晋作が顕助の刀を欲しいと言い出し、
「弟子にしてくれるなら」という条件で譲ったという。
この刀は、顕助が十津川郷に滞在していたときに、
薩摩浪人から譲られた安芸国佐伯荘藤原貞安との事。
とはいえ弟子になったという事は、
師事するということなんですが、
晋作が顕助に何かを教えたような形跡はありません。
どちらかというと「親分と呼ばせてくれ!」的な、
舎弟感覚だったのではないでしょうか?
長州藩は上下関係が曖昧な藩で、松下村塾の松蔭も、
門下生に対して「君と僕」的なフレンドリーな塾でしたので、
「刀をくれるなら勝手にどうぞ」といった感じだったのでしょうが、
「師匠!」と呼ばれるなんて、どっかがムズ痒くなったでしょうね。
同じ土佐藩の兄貴分中岡がいる前で「弟子にしてくれ」とは、
相当晋作に惹かれたのでしょう。
残念ながらそのすぐ後、長州藩は俗論派に政権を奪われ、
尊攘派の弾圧が始まります。
匿われていた脱藩浪士達は長州藩を追われ、
顕助も大坂に脱出して潜伏します。
大坂では大坂城の焼き討ちを計画するなど、
なにも教えられていない(?)のに、
晋作ばりの計画を実行しようとします(失敗しますが・・)。
その後、中岡らと共に薩長同盟の締結に奔走し、
第二次長州征伐前に晋作と再会。
晋作は顕助を丙寅丸の機関掛に任命しますが、
顕助は蒸気船の機関師などやった事もないし、
航海術の知識もまったくない。
任命する方もそれを承知する方もムチャクチャです。
この丙寅丸に晋作も乗り込み、
幕府の軍艦4隻を打ち負かすのですから、
人間やればできるものですね。
丙寅丸
さて、晋作は肺結核のために死去するのですが、
顕助が臨終に立ち会った記録もありますが、
京都にいた記録もあります。
※京都にいたというほうが信憑性は高い。
維新後は、征討軍会計部長、陸軍省会計局長、元老院議官、
初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任。
明治31年には、宮内大臣になっています。
政界から引退した後、
明治20年に晋作の漢詩集「東行遺稿」を出版します。
その他、「維新風雲回顧録」「維新夜話」「憂国遺言」でも、
晋作についてのエピソードを語っています。
高杉晋作に心酔しており、
「平生は無論、死地に入り難局に処しても
困ったという一言は断じて言うものではない」
という高杉の一言が耳そこに残っていたという。
95歳まで生きた長生きの秘訣は、
「困った」を言わないことだと信じていたらしい。
この田中光顕という人物、意外と謎の多い人物のようで、
晋作率いる御楯組が英国公使館焼討事件を起こした際、
彼も参加したと語っている。
資料には田中顕助の名前は見当たらないが、
状況的にありえない話ではない。
もしそうなら、晋作と会ったのはもっと前という事になります。
最後に光顕が「明治天皇すり替え」を語ったとされる件ですが、
その出処は「徹底的に日本歴史の誤謬を糺す(三浦芳聖著)」。
この三浦芳聖(1904-1971)という人物は、
自らも南朝正統の皇胤であると主張した「自称天皇」の一人。
「徹底的に日本歴史の誤謬を糺す」は、
そういうキ○ガイの書いた「トンデモ本」ですので、
信憑性は薄いでしょう。
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この強そうな苗字は晋作が命名したもの。