廬山寺には慶光天皇の廬山寺陵の他にも、
鎔宮墓(仁孝帝皇子)と、
壽萬宮墓(孝明帝皇女)が宮内庁管轄地ですが、
その他にも多くの皇族の墓があります。
「廬山寺墓地」。
墓地の北側には江戸期の皇族の墓が並び、
他にも… 続きを読む
京都府京都市 廬山寺/中山家墓所
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廬山寺には慶光天皇の廬山寺陵の他にも、
鎔宮墓(仁孝帝皇子)と、
壽萬宮墓(孝明帝皇女)が宮内庁管轄地ですが、
その他にも多くの皇族の墓があります。
「廬山寺墓地」。
墓地の北側には江戸期の皇族の墓が並び、
他にも… 続きを読む
中山家は羽林家の家格を持つ公卿家。
平安末期の内大臣中山忠親を祖とし、
晩年に忠親が洛東中山に居住した為、
中山家を称すようになったとされます。
初代こそ内大臣まで昇進していますが、
以後の子孫は権大納言止まりとなり、
家格としては羽林家に列しました。
13代… 続きを読む
中山神社境内にある中山忠光の墓所。
中山忠光は北浦での逃避行の後、
田耕にある長瀬の渓谷で殺害され、
綾羅木に運ばれて埋められました。
埋葬地には後に墓碑が建てられ、
その霊を慰める為に中山神社が建立。
現在に至っています。
「藤原忠光卿 神靈」。… 続きを読む
長州に逃れた中山忠光は潜伏先を転々とし、
田耕の大田新右衛門宅に2ヶ月弱程潜伏し、
その後は更に奥地の四恩寺に向かいます。
これは僕なりの推測なのですが、
脱走を繰り返して辺りを歩き回る忠光に、
幕吏の追求を恐れた長府藩の俗論派は、
四恩寺に座敷牢… 続きを読む
湯玉浦は北浦にある漁村のひとつですが、
鯖釣山が浦を守るように聳えていた為、
良港として漁民のみでなく北前船も寄港し、
旅館なども設置されて栄えていました。
吉田松陰の[廻浦紀略]では、
150戸で近頃200余戸になったと書かれ、
繁栄の様子が感じられます。
「湯玉港」。
現在も小型の漁船が停泊する港町で、… 続きを読む