廬山寺には慶光天皇の廬山寺陵の他にも、
鎔宮墓(仁孝帝皇子)と、
壽萬宮墓(孝明帝皇女)が宮内庁管轄地ですが、
その他にも多くの皇族の墓があります。
「廬山寺墓地」。
墓地の北側には江戸期の皇族の墓が並び、
他にも公卿家の墓所も多くありました。
但しこれを紹介するには資料が少なく、
紹介しても膨大な量になってしまうので割愛。
今回は中山家の墓所のみを紹介します。
中山忠光の史跡を追ってきた僕としては、
中山邸と共に訪問したかった場所です。
「中山家墓所」。
墓地北側に集まっている中山家の墓所。
巨大な石碑が建てられている為、
他と違い目立っています。
「中山家遠祖墳表記碑(中央)」、
「中山家遠祖夫人霊名碑(左)」。
14代までの当主の位階と名が刻まれた碑。
左はその夫人らが刻まれた碑です。
これは26代中山考麿に寄り建立されたもの。
中山家は中山忠親を始祖としており、
忠親が洛東中山に居住した為、
歴代当主は中山を墓所としていました。
後に中山家は廬山寺を墓所としますが、
いつしか中山の墓所が判らなくなっていた為、
侯爵となった考麿が14代まで当主の名を刻み、
先祖の墓としたようです。
碑に刻まれた当主は以下のとおり。
前内大臣正二位 藤原朝臣忠親公墓
前大納言正二位 藤原朝臣兼宗卿墓
前参議中将正二位藤原朝臣忠定卿墓
前中将正三位 藤原朝臣基雅卿墓
前参議中将従二位 藤原朝臣家親卿墓
前権中納言従二位 藤原朝臣定宗卿墓
前権大納言正二位 藤原朝臣親雅卿墓
権大納言正二位 藤原朝臣満親卿墓
前権大納言正二位藤原朝臣定親卿墓
権大納言正二位 藤原朝臣親通卿墓
権中納言正二位 藤原朝臣宣親卿墓
前権大納言正二位 藤原朝臣康親卿墓
准大臣従一位 藤原朝臣孝親公墓
権大納言正二位 藤原朝臣親綱卿墓
つまり15代からの墓が揃っている筈ですが、
発見したのは18代、20~23代で、
15代中山慶親、16代中山元親、
19代中山兼親は発見出来ませんでした。
以下は発見出来た18代、20~23代の墓。
「敬徳院従一位藤原朝臣篤親之墓」。
18代当主中山篤親の墓。
少し離れた北西角のあります。
篤親は権大納言正親町実豊の三男で、
17代当主中山営親の養嫡子となり、
家督を継いで踏歌外弁、賀茂伝奏等を務め、
従一位権大納言となっています。
「正二位藤原朝臣榮親墓」。
20代当主中山栄親の墓。
栄親は19代中山兼親の子に生まれ、
中御門天皇から後桃園天皇まで5帝に仕え、
正二位権大納言まで昇進しました。
「中山愛親墓」。
21代当主中山愛親の墓。
※墓碑銘は破損して読めません。
愛親は権大納言正親町実連の子で、
20代栄親の養子となり家督を相続しました。
[尊号一件]では閑院宮典仁親王に対し、
太上天皇の尊号を贈ることに努め、
勅使として正親町公明と共に江戸へ下向。
11代将軍徳川家斉に堂々と抗議したとされ、
帰京後に蟄居を命じられています。
贈従一位権大納言。
「正二位藤原朝臣忠尹墓」。
22代当主中山忠尹の墓。
忠尹は21代愛親の嫡男として生まれ、
参議、賀茂伝奏等を務め、
正二位権大納言となっています。
「正二位藤原朝臣忠頼墓」。
23代当主中山忠頼の墓。
忠頼は22代忠尹の嫡男として生まれ、
右近衛権中将、蔵人頭、参議等を務め、
正二位権大納言となりました。
彼は中山忠光の祖父にあたります。
廬山寺にある中山家当主の墓は以上。
24代中山忠能の墓は東京の豊島岡墓地、
25代中山忠愛の墓も東京の瑞聖寺です。
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