島津氏久は5代当主島津貞久の四男で、
島津宗家6代当主及び奥州家初代当主。
嫡嗣であった島津宗久が早世した為、
貞久は三男島津師久に薩摩守護職を、
四男の氏久に大隅守護職を譲り、
自らの所領を分割統治させます。
これによって島津家は2家に分断、
双方が宗家を名乗った為に、
氏久の系譜は奥州家と呼ばれました。
「即心院跡」。
氏久は大慈寺の剛中和尚に私淑しており、
その支院として即心院を創建。
即心院は廃仏毀釈で破壊されていますが、
境内にあった氏久夫妻の墓は残されました。
「嚴捷男雄彦命(右)」、
「新室欽敬姫命(左)」。
島津宗家6代(奥州家初代)島津氏久の墓と、
正室の敬外夫人の墓。
九州探題今川了俊が菊池氏の討伐の為、
氏久と大友親世、少弐冬資を招集。
しかし冬資は出陣を拒んだ為、
了俊は氏久に冬資の説得を依頼します。
これに応じて氏久は冬資を説得し、
了俊の陣に冬資を連れて来ますが、
宴の席で了俊は冬資を謀殺。
氏久は面目を潰されたと激怒し、
陣を引き払って帰国してしまいました。
以後は了俊と決別して大隅守護職を解任。
了俊は未子今川満範に都之城を攻めさせ、
氏久と総州家2代島津伊久は降伏しますが、
すぐに決別して対峙します。
再び満範は都之城を攻めますが、
蓑原の合戦で勝利して満範は敗走。
しかし了俊との決着はつかず、
氏久は元中4年/至徳4年(1387)に死去し、
家督は嫡男島津元久が相続し、
了俊は後に九州探題を解任されています。
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