島津宗家8代当主である島津久豊は、
日向伊東家との戦いを繰り広げ、
応永32年(1425)に鹿児島で病没したという。
そして島津家菩提寺福昌寺にて葬儀が行われ、
四十九日から十三回忌までの法要も、
同寺にて行われて墓碑も建立されています。
しかしその遺骸の埋葬地は記載はなく、
長い間不明だったとのこと。
これが安永3(1774)年に穆佐の悟性寺境内の、
義天様(久豊)の塚と伝承される場所から、
遺骨の入った大甕が発見され、
香炉や鈴等が同じく出土しました。
村人らは義天様の骨と主張しますが、
これが久豊の遺骨である証拠は乏しく、
結局は埋め戻されます。
その後の天保12(1841)年に、
悟性寺境内から[義天]と刻まれた石塔と、
その笠石が発掘された為、
地頭相良甚太夫が詳しく調べた結果、
悟性寺が久豊の墓所に違いないと確信し、
相良は薩摩藩に吟味を依頼。
しかしこの時も藩は墓所と断定出来ず、
福昌寺が久豊の墓所と結論しました。
更に嘉永6(1853)年に再度調査されますが、
結論に至る事は出来なかったようで、
安政3年にようやく藩は結論を出します。
久豊の埋葬地は福昌寺と断定。
発見された石塔は[義天]の文字を削り、
再び悟性寺境内に埋め直す。
悟性寺は菩提所とし新たに墓碑を建立。
更に発見された遺骨を後方に埋葬。
こうして翌安政4年に久豊の墓所が整備され、
これが現在に至っています。
「島津久豊墓所」。
悟性寺跡にある島津久豊の墓所。
寺は廃仏毀釈で破壊されており、
一般の墓を含む墓地のみが残っています。
「義天在忠大禪定門」。
島津宗家8代当主島津久豊の墓。
上記したように拝墓として建立され、
遺骨等は埋葬されていません。
豊州家15代島津久寶の建立ですが、
同家は久豊の三男島津季久を祖としています。
久豊の墓の裏手を登る。
「瘞骨塔」。
久豊の遺骨とされた大甕が埋葬された場所。
久豊の墓を正面から拝すると、
この墓にも拝するようになっています。
否定しつつももしかしたら・・と、
藩主家の祖先だけに慎重を期し、
なんとなく良い感じに終結させた感じ。
但し埋葬された遺骨は昭和期になって、
福昌寺に改葬されたとのことです。
この墓所へ行く際に石段があったのですが、
それを登り終えたところで、
何かを咥えたイタチに遭遇。
イタチは余程驚いたのか咥えた何かを離し、
一目散に逃げて行きます。
何かと思って見ると野ネズミの死骸。
獲物を離す程驚いたのか?
それとも獲物を囮ににげたのか?
とにかく野ネズミの死骸が残りました。
折角の獲物なのに悪い事したと思いつつ、
久豊墓所への参拝を済ませた後、
先程の遭遇地点まで戻ると死骸は消失。
イタチは獲物を取り戻せたようです(笑)
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