鹿児島県出水市 五廟社

出水市の感応寺境内にある五廟社
島津宗家初代当主島津忠久から、
5代当主島津貞久までの墓があります。

感応寺は文治3年(1187)に島津忠久が、
薩摩大隅日向三州守護職を命じられ、
薩摩入国の際に三州鎮定を願って創建。
初期島津宗家の菩提寺となりましたが、
明治初年の廃仏毀釈で一度廃寺となり、
明治13年に再興されました。


五廟社」。
島津宗家五代の墓。
長州藩では廃仏毀釈は殆ど無く、
多くの寺院が残されていますが、
薩摩藩では藩主家菩提寺も容赦なく、
徹底的に破壊されたようです。


左から、
瑞宝常照彦命(得仏大禅定門)」、
剣太刀聡心雄命(道仏大禅定門)」、
真明履道男命(道忍大禅定門)」、
委錦風雅士命(道義大禅定門)」、
上寿豊福彦命(道鑑大禅定門)」。
初代当主島津忠久、2代当主島津忠時
3代当主島津久経、4代当主島津忠宗
5代当主島津貞久の墓。
それぞれの石塔の銘は元来法名でしたが、
廃仏毀釈で神道名に書き変えられたという。
初代忠久は鎌倉御家人で本姓は惟宗姓
出自には諸説あるようですが、
島津家家伝では源頼朝が父であるという。
頼朝の命によって三州の守護職に任じられ、
他にも各地の守護職や地頭職にも任命され、
最大の荘園島津荘の地頭も拝命しています。
この地を本貫にしようと島津姓を名乗り、
家臣を南九州に派遣して、
自身は鎌倉で在勤生活を送っており、
奥州藤原氏の平定のも参加。
後に比企の乱が発生して比企氏が滅ぼされ、
比企氏の縁者であった忠久は、
連座して各地の守護職、地頭職を没収。
後の和田合戦では北条家に味方し、
薩摩守護職に返り咲いています。
2代忠時は初代忠久の子で、
承久の乱宇治川の戦いで奮闘。
父の隠居に伴い薩摩守護職を譲り受け、
鎌倉に在任して将軍、執権に仕えました。
3代久経は2代忠時の子で、
元寇の防備に従事して筥崎に駐屯し、
弘安の役で大いに活躍しており、
多くの戦功を挙げています。
4代忠宗は3代久経の子で、
元寇では父と共に奮戦しており、
父の死去に伴い家督を相続した後、
九州各地の地頭に任じられました。
5代貞久は4代忠宗の子で、
足利尊氏に呼応して幕府に反旗を翻し、
幕府拠点である大宰府を攻略。
この恩賞で大隅及び日向守護職となり、
初代忠久以来の三州守護となります。
尊氏が後醍醐天皇に反抗すると、
これに従い北朝方として戦い、
観応の擾乱では南朝の軍門に降るものの、
乱後に北朝方に復帰。
晩年には三男島津師久に薩摩守護職を、
四男島津氏久に大隅守護職を譲り、
分割統治させており、
以後島津家は総州家奥州家に分割され、
8代島津久豊が統一するまで、
両家は争う事となっています。


荼毘所」。
墓所の隣には荼毘所の塔があります。
初代、2代は鎌倉で死去しており、
3代は駐屯する筥崎で死去した為、
たぶん4代か5代の荼毘所でしょう。

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