島津中興の祖とされる島津忠良。
宗家14代島津忠兼(勝久)に国政を委任され、
長子の島津貴久を忠兼の養嫡子に譲り、
後に貴久と共に薩摩を統一。
その後も多くの仁政を敷いて国を富ませ、
島津家発展に大きく貢献させました。
「常潤院跡」。
隠居後の忠良は加世田に移り住み、
この地にあった保泉寺を再建。
深く曹洞宗に帰依して日新斎と号しています。
境内に支院常潤院を創建し仏典や儒学を研究。
学問所として教育も行ったとされ、
いろは歌を創作して人の道を論じたという。
門前の仁王像は享和3年(1803)の寄進で、
廃仏毀釈により失われていましたが、
後の昭和57年に30m程離れた場所で、
発掘されて戻されたとのこと。
「権大僧都神力宗憲法印」。
井尻神力坊の墓。
強健で武芸に優れた山伏だったようで、
忠良の信望を得ていたとされ、
彼に諸国の実情を確かめる為に、
法華経奉納を兼ねて諸国歴訪を命じました。
以後22年掛けて神力坊は諸国を巡り、
全国66ヶ所に経塚を建立。
しかし帰郷すると既に忠良は死去しており、
悲観に暮れて殉死したとされます。
他説では忠良の健在中に戻って来て、
恩賞に真幸の地を与えられたとも。
「寛庭芳宥大姉」。
忠良夫人の墓。
薩州家3代島津成久の娘だったようで、
島津宗家15代当主島津貴久や、
垂水家初代島津忠将の実母でもあります。
「日新公墓」。
島津忠良の墓。
島津家諸流伊作家当主伊作善久の子でしたが、
父は馬丁を辱めた為に反撃に遭い撲殺。
祖父も戦死してしまった為に、
母が一時的に当主となっていたという。
相州家2代島津運久と母が再婚し、
運久の養嫡子となった忠良は、
後に両家の家督を相続。
善政を敷いて領地を上手く統治し、
その名声は領内外に響きました。
当時の島津宗家14代島津忠兼は、
薩州家5代島津実久に国政を一任した為、
実久はこれを専横して権力を掌握。
これに忠兼は実久の姉である正室と離縁し、
実久を遠ざけようとしますが、
これに激怒した実久は兵を挙げ、
鹿児島から忠兼を追放してしまいます。
忠兼は名声高き忠良に助けを求め、
これを受けて忠良は国政委任を承諾。
実子貴久を勝久の養子に譲りました。
忠兼は貴久に宗家の家督を譲り、
貴久が島津宗家15代当主となりますが、
これに実久は忠兼に家督再封と説き、
貴久を追い出して忠兼は再度家督を相続。
忠兼は再封後に名を勝久に改めます。
追放された貴久は力を蓄えた後、
忠良と共に反攻を開始。
版図を広げて実久領である出水を孤立させ、
勝久も大隅に逃亡させました。
忠良は当主に復帰した貴久を補佐し、
領国に善政を敷いて国を富ませ、
後に加世田に隠居するに至ります。
常潤院跡から北東へ山麓沿いに進むと、
日新寺跡に創建された竹田神社があります。
「竹田神社」。
忠良の再建した保泉寺はその死後に、
7世梅安和尚が寺号を日新寺と改称。
日新寺は廃仏毀釈により廃寺となりますが、
明治6年に竹田神社として再興され、
日新公(忠良)を祭神として祀っています。
常潤院跡まで戻って更に南西へ。
「大中良等庵主」。
島津貴久の灰塚。
貴久は加世田の御屋形で死去しており、
ここで荼毘に付されたようで、
後年に貴久の長男15代島津義久が、
灰塚を建てて釈迦院を建立したようです。
現在の碑は享和3年(1803)再建のもの。
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