①/②/③
福昌寺は島津奥州家2代当主島津元久が
総持寺20世であった石屋真梁を招き、
自らの菩提寺として建立した寺院でした。
後に島津宗家の菩提寺となった為、
歴代の墓が建てられるようになりましたが、
維新後の廃仏毀釈によって廃寺となり、
現在は墓地のみが残されています。
「島津宗家墓所」。
流石に島津宗家の墓地だけあり、
その敷地は広大です。
当主墓碑は宝篋印塔で統一されていますが、
墓碑に関しては他の大名家に比べると、
比較的小さいように感じました。
ここにあるのは6~28代の当主の墓。
因みに6、7代は2家に分裂した時期で、
6代当主の墓は2つあります。
「貞道廣高男命(左)」、
「貴桜真恒彦命(右)」。
島津総州家初代(宗家6)当主島津師久の墓と、
早逝した兄島津宗久の墓。
師久は5代島津貞久の三男でしたが、
嫡嗣であった宗久が早世した為、
貞久は師久に薩摩守護職を、
四男の島津氏久に大隅守護職を譲り、
自らの所領を分割統治させます。
これによって島津家は2家に分かれ、
師久が上総介と称していた為、
相州家と呼ばれるようになりました。
「巌捷男雄彦命(中央)」。
島津奥州家初代(宗家6)当主島津氏久の墓と、
その夫人達(正室及び継室)の墓。
氏久は5代貞久の四男として生まれ、
貞久によって大隅守護職を譲られました。
足利尊氏に従い南朝と戦いますが、
九州探題今川了俊に逆らった為、
大隅守護職を解任されています。
「弥高真性男命(中央:元久)」、
「善攻福廣雄命(元久の右隣:久豊)」。
島津奥州家2代当主(宗家7)島津元久の墓と、
島津宗家8代当主島津久豊の墓。
元久は奥州家初代氏久の嫡男で、
父の死去に伴い家督を相続しました。
相州家2代島津伊久が子の島津守久と対立し、
伊久の居城川辺城を守久が包囲すると、
守久を説得して事態を収拾。
この見返りに薩摩守護職と家宝を譲られ、
相州家の家督を得る事となり、
伊久の三男島津久照を養子としています。
しかし後に相州家ゆかりの夫人と、
養子としていた久照を離縁させた為に、
相州家側との関係が悪化しますが、
元久はこれを圧倒して勢力を強めました。
後に大隅守護職にも復帰し、
日向守護職も手に入れています。
久豊は奥州家初代氏久の次男で元久の弟。
兄の急逝により家督を相続し、
統一された宗家8代当主となっており、
相州家を追い込んでいます。
因みに相州家2代伊久の墓は不明。
「小城山茂栄彦命(右)」。
島津宗家9代当主島津忠国の墓と夫人の墓。
8代久豊の嫡男に生まれ、
父の死去により家督を相続。
相州家の5代当主島津久林を討ち取り、
島津家を完全に統一させますが、
領内では国一揆が発生した為、
弟の島津用久を薩摩国守護代に任じ、
反乱勢力を鎮圧させました。
しかしこれによって用久が力を持ち、
双方は対立する事となります。
更に嫡男島津立久とも不仲となり、
加世田に追放されましたが、
家督は死ぬまで渡していません。
「豊廣竜雲根命(右)」。
島津宗家10代当主島津立久の墓と夫人の墓。
9代忠国の嫡男として生まれますが、
領国を纏められない父と対立し、
これを追放して事実上の当主となりました。
薩摩及び大隅の領国経営に専念し、
安定した治世を送っており、
琉球や李氏朝鮮との交易も推進してます。
「綺奇新瓊彦命(右)」。
島津宗家11代当主島津忠昌の墓と夫人の墓。
10代立久の子として生まれ、
出家して源鑑を名乗っていましたが、
父に死去に伴い遍俗して家督を相続。
用久の子島津邦久や、
8代久豊の三男島津季久、
9代忠国の庶子島津友久等が背き、
領国は国中大乱と称されるほど乱れ、
最終的に地位は守られるものの、
争乱が収まらぬ事を苦に自害しています。
「蕙蘭真馨男命」。
島津宗家12代当主島津忠治の墓。
忠昌の嫡男として生まれ、
父が自害した為に家督を相続します。
学者肌で温厚な人物だったらしく、
先代より続く争乱は更に悪化。
7年の治世の後に陣中で病死しました。
つづく。
①/②/③
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