鹿児島県鹿児島市 伊牟田尚平誕生地

巨大な石油貯蔵施設な並ぶENEOS喜入基地
その近くに伊牟田尚平の誕生地があります。


伊牟田尚平君誕生地碑」。
伊牟田家は喜入郷領主肝付兼善の家臣で、
薩摩藩からは陪臣の立場でした。
医業を志して侍医東郷泰玄に学び、
後に蘭学を学ぶために長崎に出ています。
安政元年に主命で江戸に出ると、
塩谷宕陰安井息軒の門を叩き、
藩内尊攘派や諸藩の有志を交わるうちに、
国事に奔走する事を志したという。
この状況を主の肝付兼善が危険視し、
帰郷するように命じていますが、
これが不服であったのか安政4年に脱藩。
上方で田中河内介桜任蔵と交遊し、
尊皇攘夷運動を展開しています。
安政の大獄が起こると嫌疑をかけられ、
奥州に逃れて潜伏しますが、
幕吏に追われて薩摩に帰郷。
肝付兼善の命で謹慎処分となりました。

桜田門外の変井伊直弼が暗殺され、
時世に変化が生じるようになると、
島津久光関山糺を江戸に派遣し、
その形勢を観察せる事とします。
これに伊牟田も随行する事が許され、
再び江戸に戻ると清河八郎らと交流し、
清河の結成した虎尾の会に参加。
過激な攘夷思想を持っていたようで、
米国通訳ヒュースケンを暗殺し、
清河や平野国臣らと挙兵を計画する等、
その行動が危険視されるようになり、
喜界島への流罪に処されました。
その後に許さると江戸へ派遣され、
御用盗と呼ばれる軍団を組織し、
相楽総三益満休之助らと共に、
強盗や放火等を行って破壊活動を行い、
江戸薩摩藩邸焼討事件に至ります。
伊牟田は捕縛を逃れて京都に移りますが、
京都や近江でも強盗を続けたようで、
その罪によって捕縛されて斬首。
又は、その責で自刃したという。

この碑は大正12年に建立されたようで、
碑の裏には部下の起こした強盗の責任を負い、
明治元年に京都の薩摩藩邸において、
自刃したと説明されています。

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