鹿児島県姶良市 総禅寺跡

総禅寺豊州島津家の菩提寺だった寺で、
文明年間(1469-1486)に島津季久が創建。
廃仏毀釈廃寺となっていますが、
その墓地のみが残されています。


招魂塔」。
明治12年に建立された招魂碑で、
西南戦争の帖佐出身戦死者のもの。
総禅寺墓地の入口に聳えており、
背面に61名の名が刻まれています。
更に右側の碑は[帖佐従軍者名簿]で、
第七大隊二番小隊五番小隊
七番小隊十番小隊の隊士のもので、
思舊開素懐」の文字は勝海舟の書。
帖佐の隊士らは全て第七大隊に所属し、
415名が別府晋介の下で戦いました。

一般墓地は綺麗に整備されていますが、
奥にある島津家の墓所は草生しています。

豊州島津家墓所」。
総禅寺墓地の奥にある豊州島津家の墓所。。
大きな木を中心として墓石が点在しますが、
草で覆われてしまっているものもありました。


島津豊後守季久の墓」。
豊州島津家初代当主島津季久の墓。
季久は島津宗家8代島津久豊の三男で、
豊後守を称していました。
兄で宗家9代島津忠国帖佐領を与えられ、
瓜生野城(建昌城)を築城。
宗家10代島津立久にも従いましたが、
11代島津忠昌とは意見が合わずに対抗。
一時は忠昌を追い詰めましたが、
後に押し戻されて降伏しています。
季久は文明9年(1477)に死去しましたが、
崇禅寺はまだ建設中であった為に、
近隣の雲門寺に一時的に埋葬されており、
その完成後にここに改葬されたとのこと。


御屋地様の墓」。
宗家17代島津義弘の長女千鶴の墓。
北郷時久に嫁いでいましたが死別。
豊州家6代島津朝久と再婚して、
7代当主島津久賀を産んでいます。
朝久と死別した後は息子の久賀を支え、
後に父義弘に屋敷を与えられました。
これにより御屋地様と呼ばれたようで、
後に平松城に移って余生を過ごし、
寛永13年(1636)に死去しました。


島津豊後守朝久の墓」。
豊州島津家6代当主島津朝久の墓。
5代島津忠親の次男として生まれ、
父の死去に伴い豊州家を相続し、
島津義弘の長女千鶴を娶りました。
伊東家大友家との戦いで活躍し、
文禄の役にも従軍して朝鮮に渡りますが、
巨済島で病に倒れて病没。
遺骨が崇禅寺に送られて埋葬されています。

この総禅寺には島津歳久の胴が一時葬られ、
後に改葬されていたようで、
島津金吾歳久公胴体埋葬之跡もあったらしい。
残念ながら訪問時は見つけられませんでした。
歳久は宗家15代島津貴久の三男で、
16代島津義久、17代義弘の弟。
末弟の島津家久と共に島津四兄弟と呼ばれ、
島津家の覇業に貢献しましたが、
後に島津家は豊臣秀吉に降伏しています。
他の三人は秀吉に従順な態度を取りますが、
歳久のみは反抗的な態度を取っており、
挙句に秀吉の怒りを買ってしまいました。
兄の義久は止むを得ず兵を差し向け、
歳久は抗戦した後に自害。
その首級は京都に送られていますが、
胴体はこの総禅寺に埋葬されます。
後に首級と共に日置の大乗寺に改葬され、
大乗寺は日置島津家の墓所となりました。

■関連記事■
宮崎県宮崎市 島津久豊墓所
 季久の父島津久豊の墓所。
鹿児島県南さつま市 島津忠国墓所
 季久の兄島津忠国の墓所。
鹿児島県日置市 日置島津家墓所①
 大乗寺跡にある日置島津家の墓所。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です