鹿児島県鹿児島市 福昌寺跡/島津宗家墓所②

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つづき。


白露夭霊彦命」。
島津宗家13代当主島津忠隆の墓。
11代島津忠昌の次男として生まれ、
12代の兄島津忠治の死去により家督を相続。
兄と同様に戦を好まぬ人物だったようで、
領国の乱れは続いており、
兄と同様に早逝しています。


勇捷盤常男命」。
島津宗家14代当主島津勝久の墓。
11代忠昌の三男として生まれ、
頴娃家の家督を相続していましたが、
兄忠隆の早逝に伴い宗家を継ぎました。
有力な家臣の協力を得る為に、
薩州家5代島津実久の姉を正室に迎えますが、
実久が次第に権勢を強めるに至った為、
正室と離縁して相州家に協力を求め、
相州家3代島津忠良の子島津貴久を養子とし、
家督を譲って隠棲しています。
これに実久が猛反発した為に、
すぐに家督を取り戻しており、
勝久、実久、忠良と貴久が争うようになり、
勝久は次第に家臣に見捨てられ、
大友家を頼って豊後に亡命しました。


大中」。
島津宗家15代当主島津貴久の墓。
相州家3代忠良の長男として生まれ、
14代勝久の養子となり家督を相続しますが、
薩州家5代実久がこれに反対し、
家督は再び勝久に戻ります。
しかし勝久と家臣団の折り合いが悪く、
実久が宗家乗っ取りを図り勝久を追放。
この間に忠良と貴久は国人衆を味方に付け、
薩摩半島の掌握に努めると、
実久と戦って勝利し再び当主となりました。


貫明存忠庵主」。
島津宗家16代当主島津義久の墓。
15代貴久の嫡男として生まれ、
父の隠居により家督を相続しました。
薩摩国大隅国を統一した後に、
伊東義祐を破って日向国も平定。
義祐が豊後の大友宗麟を頼ると、
宗麟は大軍を率いて日向に侵攻しますが、
耳川の戦いでこれを撃破します。
肥前国で台頭していた龍造寺隆信も、
沖田畷の戦いで破っており、
九州統一にあと一歩となりますが、
豊臣秀吉九州征伐で鹿児島に押し戻され、
剃髪して降伏しました。
秀吉に降伏した後は薩摩一国を拝領し、
弟の島津義弘に大隅一国、
義弘の養子島津久保に日向国諸縣郡が、
それぞれ与えられています。
この際に義弘に家督を譲っていますが、
依然として実権は握り続けていたという。
関ヶ原の戦いでは西軍となっており、
義弘が本戦に参加。
西軍敗北により薩摩征伐が計画されますが、
これが中止されて降伏交渉が開始され、
2年に及ぶ交渉の末に本領安堵が決定し、
甥の島津忠恒を江戸に派遣しました。
その後も死ぬまで発言力を持っていたようで、
降伏後に隠居した義弘と、
新しく家督を相続した忠恒とで、
三殿体制となっていたようです。


松齢自貞庵主」。
島津宗家17代当主島津義弘の墓。
15代貴久の次男として生まれ、
武勇の誉れ高く臣下にも慕われたという。
伊東家や大友家との戦いで活躍し、
豊臣政権下では朝鮮に出兵。
や朝鮮の大軍を僅か7000の寡兵で破り、
島津兵の勇猛さを知らしめました。
関ヶ原の戦いでは1000を率いて参戦し、
西軍が敗れる中で退却戦を展開。
多くの犠牲を出しながら帰還を果たし、
これが島津の退き口として語られます。
徳川家への降伏後に隠居して隠棲。
死去の際は13名が殉死しました。


花心琴月大居士」。
島津宗家18代当主、
薩摩藩初代藩主島津家久(忠恒)の墓。
17代義弘の三男として生まれ、
継嗣であった次兄久保が病死した為、
豊臣秀吉の指名で継嗣となっています。
関ヶ原の戦い後の降伏交渉では、
義久に代わって上洛して謝罪しており、
島津家は本領を安堵されました。
慶長14年(1609)には琉球に侵攻し、
これを付庸国とした他、
奄美群島を琉球より割譲。
新たに鶴丸城を築いて城下町を整備し、
外城制門割制を確立する等、
藩政の基礎を築き上げました。


泰雲慈温大居士(右)」。
島津宗家19代当主、
薩摩藩2代藩主島津光久の墓と夫人の墓。
初代藩主家久の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続します。
貿易によって支えられていた財政が、
鎖国政策によって困窮する事となり、
金山開発新田開発産業振興等、
新たな財源確保を模索。
50年の長期間藩主を務めました。

つづく。
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