大田宿は美祢郡の小盆地にあり、
南流する大田川の左岸に集落が置かれ、
北にある長登鉱山の物資集積地として、
人が集まって市が開かれました。
また船木街道の宿場町にもなっています。
※船木街道は土地ヶ垰から大田宿を経由し、
船木宿から刈屋浦に至る街道。
その交通の要所的性質から、
周辺を支配する美祢宰判勘場も置かれ、
藩政時代には更に発展しました。
「地下上申絵図 大田」。
大田周辺を描いた古地図。
大田川が町を囲むように流れています。
南側より散策。
街道は南北に伸びていますが、
市や宿場は北側に集まっていた模様。
南側は敷地の広い家が並んでいるようで、
商家ではなく農家だったと思われます。
先へ進むと家々は商家に変わり、
往時の賑わいが伝わりますが、
現在は殆どが商売を辞めている模様。
光明寺や願成寺へ至る三叉路。
その様子から一番賑わった場所と思われます。
未だ店を開けている商店もありますが、
あるのと無いのでは利便性が違います。
儲けよりも地域の為に続けてるのでしょう。
「旧伊東宅」。
種田山頭火が句を詠んだとされる旧宅。
山頭火は明治以降の俳人ですが、
史跡を巡っていると碑などをよく見かけます。
彼の自由律俳句という独自の俳句は、
凡人の僕にはその良さが判りません。
「山頭火句碑」。
旧伊東家の庭先に句碑があります。
昭和7年後に山頭火は小郡に居を構え、
度々行乞しに大田まで来ていたという。
下記の句は昭和8年にここで詠んだ句。
朝くもり もう石屋の
鑿が鳴だした
更に進むと金麗社の門前に至ります。
街道大田川を越えて続き市はここまで。
金麗社は内訌戦の際に奇兵隊本陣となり、
山口県美祢市 大田絵堂の戦い史跡②
山縣狂介ら幹部が髷を奉納しています。
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