伊佐市は藩内の主要街道から外れていましたが、
売薬業が盛んに行われて栄えていたようで、
幕末期には32軒もの売薬業者が軒を連ね、
その商圏は山陰、北九州をメインとした他、
関東や北陸にまで及んでいたようです。
その起源は桜山の修験者に勤仕していた者が、
江戸時代に入って売薬業を始めた事からとされ、
「伊佐の薬売り」として知られていたという。
「伊佐市の街並み」。
古い家屋が多く残っているようで、
往時の雰囲気を感じられます。
売薬業は富山の同業者等の競合に敗れ、
次第に縮小してしまったようで、
大正8年には13軒、昭和18年には、
最後に残った1軒も廃業してしまいました。
市には宿場の機能も備わっていたようです。
元治元年12月15日。
高杉晋作は功山寺で挙兵しますが、
呼応したのは石川小五郎の遊撃軍など、
僅か80余名(諸説あり)程度であり、
諸隊主力の奇兵隊等はこれに参加せず、
藩政府への恭順の方向(諸説あり)で動き、
駐屯していた長府藩領から伊佐へ移動。
この伊佐転陣は九州行きを決めた五卿のうち、
三条西季知と四条隆謌の両卿が別れの挨拶の為、
萩に向かう為の護衛ともされます。
しかし当時の萩には幕府巡検使が滞在中で、
諸隊に率いられた両卿が萩城下に入ると、
色々と問題が生じてしまう為に、
藩主の名代として寄組士益田孫槌が来訪。
萩行き中止を請われて二卿は萩行きを断念し、
挨拶には中岡慎太郎が向かう事となりました。
諸隊は伊佐に残り武備恭順の建白書を藩に提出。
この回答が藩から得られなかった為、
諸隊も遂に開戦を決意するに至り、
絵堂へ進軍して大田絵堂の戦いが開始されます。
「勤皇の女丈夫 一国オトク誕生の地」。
三条西季知と四条隆謌の両卿は、
萩行き断念した後の12月27日に、
三条実美らの待つ功山寺に戻りました。
この一国オトクなる女性は両卿の滞在時に、
献身的に給仕を務めていたようで、
両卿が長府に戻る際にも随行したという。
そのオトクという女性の誕生地のようですが、
これ以外の情報が殆どありません。
「奇兵隊本陣跡」。
大庄屋格で酒造業を営む村上助右衛門邸の跡。
近頃まで木造家屋と門が残されていましたが、
所有者の意向と市の判断によって取り壊され、
現在は駐車場となっています。
「宇部興産㈱ 伊佐セメント工場」。
伊佐市跡に隣接する巨大な石灰石産出工場。
石灰石はセメントの原料で、
美祢市はその石灰石の全国有数の産出量を誇り、
企業城下町として発展しています。
古い街並みと巨大工場の風景は中々にシュール。
■関連記事■
・佐賀県鳥栖市 田代宿跡
こちらも売薬で栄えた町。
・山口県美祢市 大田絵堂の戦い史跡①/②/③/④
大田絵堂の戦いの史跡