美祢市 大田絵堂(絵堂開戦)

①///

小郡萩道路(無料区間)ができたおかげで、
萩へ楽に行けるようになっていますが、
この道路は「大田」や「絵堂」へも行きやすい。
萩にはよく行くのですが、今回初めて大田・絵堂に下りてみました。
下りると言っても、現状で小郡萩道路の終点は絵堂ですけどね。

高杉晋作功山寺挙兵によって、諸隊萩政府軍との決戦を決意。
大田絵堂の戦い」が開始されます。


慶應乙丑 絵堂戦跡記念碑」。
元治2年1月6日夜。諸隊の斥候隊が絵堂宿のはずれに到着。
翌未明に斥候隊中村芳之助田中敏助の2名が、
酒屋藤井弥伝次邸を本陣とする萩政府軍の粟屋帯刀に戦書を届け、
帰隊と同時に野戦砲を合図に小銃の一斉射撃を開始します。
萩政府軍は奇襲に慌て、応戦しながら後退しました。

絵堂を占領した諸隊でしたが、絵堂の地形が防戦に不向きと判断。
大田に兵を引きます。


大田・絵堂戦役 萩政府軍本陣跡の門」。
萩政府軍本陣であった藤井弥伝次邸の門で、
現在は「慶應乙丑 絵堂戦跡記念碑」の隣に移築されています。
説明板には旧柳井邸の門となっていますが、
明治期に藤井家から柳井家に所有者が代わり、
柳井家より美東町に寄付されたから。
門の柱には当時の銃痕が残っています。


養泉寺」。
養泉寺は当時、荻野隊の宿陣地となっています。
荻野隊は諸隊に属していた関係上、
諸隊側から味方になるよう催促されていましたが、
態度を保留して中立の立場を取っていました。
養泉寺の門前の松に「荻野隊」と書いた提灯を掲げて、
宿陣地がわかるようにしていた為、諸隊側はここの奇襲を避けます。
しかし奇襲の翌日、荻野隊は萩政府軍に味方することとなり、
先鋒として諸隊と戦うことになりました。

提灯の掲げられた松は「ちょうちん松」として親しまれましたが、
マツクイムシの被害で枯れてしまったそうです。


正岸寺」。
絵堂から退却した萩政府軍が本陣とした寺です。
大田絵堂の戦いにおける最終局面では夜襲を仕掛けられ、
萩政府軍はここを撤退しています。


萩野隊士堀越松三郎の墓」。
正岸寺にある萩野隊士の墓。
正岸寺への夜襲の際に戦死したものです。
彼は伊佐村徳定出身の農民。
本来ならば諸隊の一員として戦っていても不思議はなかったでしょう。

でもなんだか変だなと思ったらこれは裏側・・。

こちらが表ですね。
看板の建て方が逆なのは、前面に一般のお墓があって、
看板が建てられなかったからですね。

正岸寺を出て北へ。少し大田絵堂の戦いから離れます。
赤郷小学校の近くに長州天保一揆の首謀者勝五郎の墓があります。

義民 勝五郎の墓」。
長州天保一揆は、天保2年に長州全土で起こった百姓一揆で、
防府で勃発した百姓一揆が藩内各地に広がりました。
美祢でも畔頭の勝五郎らが先導して百姓一揆が起こります。
美祢各村の庄屋を襲い、参加者は6~7千人にも及びました。
一揆が収まり勝五郎は首謀者として死罪となりますが、
藩使や庄屋の更迭・交代など、一定の成果があったようです。
勝五郎は地元民の崇敬をうけて、盆踊りなどで弔われました。


真教寺」。
長州藩銭座跡の近くにある真教寺。
ここに遊撃隊士の墓があります。


境内を探していると、無縁仏の墓石の集まりが・・。
元々宇部市小野荒神社にあったものが、
ここに引き取られたようです。


遊撃隊士斉藤栄千代の墓」。
彼がどういう人かは調べてもわかりませんが、
遊撃隊士ならば、他藩人の可能性も高いでしょう。

次回は、絵堂から陣を引いた諸隊がまず本陣とした太田の光明寺へ。
①///

■関連記事■
下関市長府 維新発祥の地
 功山寺挙兵から維新が始まったという説。
岩国市周東町 通化寺(遊撃軍の本陣)
 大田絵堂の戦いの後に高杉晋作が総督となっています。
力士隊について
 挙兵に参加して勝ち組のはずが・・。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。