「維新発祥之地」碑。
長府のある碑ですが、
長府を維新発祥の地としている所以は、
維新発祥が功山寺挙兵だとする為でしょう。
確かに功山寺挙兵から始まる内訌戦の末に、
正義派政権が誕生して幕府との対決に備え、
幕長戦争勝利によって幕威が崩壊し、
明治維新に移行するわけです。
・・が、維新発祥と言ってもいいものか?
同じように明治維新発祥地という石碑は、
奈良県五條市にあります。
これは天誅組の変を所以としており、
幕末最初の武装反乱として、
維新の魁となる義挙であるとしています。
確かに幕末最初の武力蜂起であったわけで、
結果的に失敗したものの、
倒幕を実行に移した最初でもありました。
この2つのどちらが正かという議論は、
下関に住む僕がどうこう言うのは、
少々公正さを欠くとは思います。
そもそも明治維新というものは、
武力による政権交代ではなく、
徳川慶喜が大政奉還して幕府が消滅し、
王政復古の大号令等によって、
新体制の樹立に至ったわけです。
そう考えると武力蜂起には無理があり、
天誅組の変が無かったとしても、
幕府の瓦解はあり得たと思われます。
しかし功山寺挙兵より正義派政権の樹立し、
長州が武備恭順の方針で動かねば、
後の第二次長州征伐は起こらず、
幕長戦争で幕府が敗れる事もなかった。
こう考えれば長府の維新発祥の方が、
どうも分がありそうです。
但し維新発祥の地であるかと云われれば、
それは正しいかどうかわからない。
功山寺挙兵も長州征伐があったからで、
長州征伐は禁門の変が原因となりますし、
禁門の変は八月十八日の政変が起こった為。
八月十八日の政変も攘夷親征計画が原因で、
ここで天誅組の変との接点が出てきます。
上記のように事件は京都で起こっており、
結局は維新発祥の地は京都なのではないか?
・・もっと遡れば桜田門外の変では?
いやいやペリー来航が維新発祥??
最終的には[風雲児たち]ではないですが、
関ヶ原の戦いまで遡っちゃいます。
テニス発祥地みたいなものであれば、
最初にテニスした場所になるでしょう。
誰もラケットを製造した場所は指しません。
そう考えると[維新発祥の地]は、
二条城であり御所なのでは?
そもそも維新発祥なんて大風呂敷を広げず、
[倒幕発祥の地]くらいにしておけば、
何も問題無かったんですね。
そうなると五条市の方に分がありそう??
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・奈良県五條市 五條代官所跡
明治維新発祥地碑が建てられています。