美祢市 大田絵堂の戦い史跡④(呑水峠、赤村の戦い)

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萩政府軍は荻野隊を先頭に、約500名で長登口より攻撃。
守備していた膺懲隊八幡隊は、太平堤の土手を盾に防戦。
約5倍の兵力差で諸隊勢は劣勢となっていました。


慶應乙丑 大田絵堂戦跡記念碑」。
劣勢をみかねた南園隊隊長佐々木男也は30名の部下と共に、
呑水峠南側の小中山に登り、萩政府軍を側面より攻撃。

また大木津口より奇兵隊が援軍に駆けつけます。
雨も降りだし萩政府軍側の火縄銃が使えなくなった為、
萩政府軍は総崩れして赤村まで撤退しました。


元治元年1月14日の呑水峠の戦い

その日、高杉晋作遊撃隊を率いて諸隊と合流。
増援を得た諸隊は、萩政府軍本陣の夜襲を決定します。

呑水峠より長登に進むと、
福原乙之進の墓のある「常福寺」があります。


福原乙之進の墓」。
福原乙之進は長州藩攘夷派藩士。
品川の英国領事館焼討事件にも参加しています。
焼玉をちぎって食べたというエピソードの人物はこの人。
残念ながら彼は、文久3年に赤坂の刈谷藩邸内での密議中に、
古河藩捕吏の襲撃を受け自害しています。

再び絵堂赤村の正岸寺へ。

正岸寺」。
晋作の合流で勢いを得た諸隊は、正岸寺に夜襲を仕掛けます。
高杉晋作の遊撃隊を中心に3方より攻撃。
夜が暮れてすぐに始まった戦闘は深夜まで続いたようで、
相当の激戦であったと思われます。
萩政府軍は退却し「大田絵堂の戦い」は諸隊の勝利で終了。


元治元年1月14~15日の赤村の戦い
この勝利の後、晋作は萩政府軍の追撃を主張しますが、
諸隊幹部らは一旦山口まで引いて防備を固めようと提案します。
途中から参加して決起盛んな晋作と、苦戦続けた諸隊幹部では、
その勢いが違いますからね。
結局、山口へ転陣することに決定なりました。

その後、鎮静会議員の活躍や権現原の暗殺
諸隊の萩包囲、俗論党の萩脱出を経て正義派政権が誕生し、
長州藩は「武備恭順」に藩論が統一される訳です。


さて、最後に「道の駅みとう」で貰った冊子を紹介しときます。
観光の冊子やチラシなんて大した事書かれていませんが、
この「大田・絵堂戦役 巡検ガイドブック」は本気です。
すごく詳しく書かれており、大田絵堂の戦いはこれだけで理解可能。
こんなレベルの高い冊子はほかに知りません。
お金払ってもいいかなと思うほどの内容ですね。
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■関連記事■
下関市長府 維新発祥の地
 功山寺挙兵から維新が始まったという説。
岩国市周東町 通化寺(遊撃軍の本陣)
 大田絵堂の戦いの後に高杉晋作が総督となっています。
力士隊について
 挙兵に参加して勝ち組のはずが・・。
東京都世田谷区 世田谷松陰神社(・・え?祭り?)
 福原乙之進の墓もあります。

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