美祢市 大田絵堂(呑水峠、赤村の戦い)

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萩政府軍は荻野隊を先頭に、約500名で長登口より攻撃。
守備していた膺懲隊八幡隊は、太平堤の土手を盾に防戦。
約5倍の兵力差で諸隊勢は劣勢となっていました。


慶應乙丑 大田絵堂戦跡記念碑」。
劣勢をみかねた南園隊隊長佐々木男也は30名の部下と共に、
呑水峠南側の小中山に登り、萩政府軍を側面より攻撃。

また大木津口より奇兵隊が援軍に駆けつけます。
雨も降りだし萩政府軍側の火縄銃が使えなくなった為、
萩政府軍は総崩れして赤村まで撤退しました。

その日、高杉晋作遊撃隊を率いて諸隊と合流。
増援を得た諸隊は、萩政府軍本陣の夜襲を決定します。

呑水峠より長登に進むと、
福原乙之進の墓のある「常福寺」があります。


福原乙之進の墓」。
福原乙之進は長州藩攘夷派藩士。
品川の英国領事館焼討事件にも参加しています。
焼玉をちぎって食べたというエピソードの人物はこの人。
残念ながら彼は、文久3年に赤坂の刈谷藩邸内での密議中に、
古河藩捕吏の襲撃を受け自害しています。

再び絵堂赤村の正岸寺へ。

正岸寺」。
晋作の合流で勢いを得た諸隊は、正岸寺に夜襲を仕掛けます。
高杉晋作の遊撃隊を中心に3方より攻撃。
夜が暮れてすぐに始まった戦闘は深夜まで続いたようで、
相当の激戦であったと思われます。
萩政府軍は退却し「大田絵堂の戦い」は諸隊の勝利で終了。

この勝利の後、晋作は萩政府軍の追撃を主張しますが、
諸隊幹部らは一旦山口まで引いて防備を固めようと提案します。
途中から参加して決起盛んな晋作と、苦戦続けた諸隊幹部では、
その勢いが違いますからね。
結局、山口へ転陣することに決定なりました。

その後、鎮静会議員の活躍や権現原の暗殺
諸隊の萩包囲、俗論党の萩脱出を経て正義派政権が誕生し、
長州藩は「武備恭順」に藩論が統一される訳です。


さて、最後に「道の駅みとう」で貰った冊子を紹介しときます。
観光の冊子やチラシなんて大した事書かれていませんが、
この「大田・絵堂戦役 巡検ガイドブック」は本気です。
すごく詳しく書かれており、大田絵堂の戦いはこれだけで理解可能。
こんなレベルの高い冊子はほかに知りません。
お金払ってもいいかなと思うほどの内容ですね。
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■関連記事■
下関市長府 維新発祥の地
 功山寺挙兵から維新が始まったという説。
岩国市周東町 通化寺(遊撃軍の本陣)
 大田絵堂の戦いの後に高杉晋作が総督となっています。
力士隊について
 挙兵に参加して勝ち組のはずが・・。
東京都世田谷区 世田谷松陰神社(・・え?祭り?)
 福原乙之進の墓もあります。

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