高杉晋作の功山寺挙兵に呼応した諸隊といえば、
石川小五郎の遊撃隊と伊藤俊輔の力士隊です。
この力士隊というのは、
文久3年に諸隊が相次いで誕生したのと同様に、
相撲の力士達で結成された隊です。
各大名は実力ある力士達を「お抱え」として雇っており、
今でいえばスポーツ選手が企業に雇われるようなものでした。
ちなみに伝説的な力士雷電爲右エ門は、松江藩のお抱えです。
もちろん長州藩にも「お抱え力士」が居た訳で、
その「お抱え力士」達が藩の一大事に、
自分達も今こそ日頃のご恩に報いる時ぞと、
藩に願い出て結成されたのが力士隊でした。
大相撲十両の山分勝五郎、錦川長五郎、菊ヶ浜亀吉、
若稲荷勝蔵、山猫万吉、岩ヶ井粂吉、生雲山市蔵らプロ力士と、
地元で集めた草相撲の力自慢らを集めて結成され、
狭間筒と呼ばれる長い火縄銃を与えられ、
来島又兵衛率いる遊撃隊に付属しています。
長州藩お抱えの力士菊ヶ浜勝蔵。
山分勝五郎の前の四股名が菊ヶ浜勝蔵らしいのですが、
本人の浮世絵かどうかはわかりません(たぶん違うでしょう)。
四股名は受け継がれますからね・・・。何代目とか。
やがて禁門の変が起こり、力士隊は狭間筒の他に、
金剛棒や長槍などを持って戦闘に参加しました。
戦死した来島の遺体を後方に運んだのは力士隊士だとされ、
戦闘自体も勇猛であり、隊長の那須唯一(彼は力士ではない)以下、
阿武潟東三郎、阿武潟力松、玉石卯之助が戦死しました。
初陣は散々な結果となった力士隊。
次の下関戦争の時はどうだったのかはわかりません。
とにかく四ヶ国と講和が終了した後、伊藤が隊長になりました。
これは井上聞多が襲撃を受けて重傷を負った為、
伊藤の護衛も兼ねて隊長としたようです。
その際、所属も遊撃隊から御楯隊となりました。
※そういえばそうか。遊撃隊所属であるなら、
功山寺挙兵は遊撃隊と力士隊が参加したとならず、
遊撃隊だけが参加したという事になるなぁ。
で、功山寺挙兵!
諸隊が決起に難色を示す中、
石川小五郎の遊撃隊と伊藤の力士隊だけが参加。
新地会所を襲撃して、力士隊の名を歴史に名を刻みます。
・・・が、なんともお粗末な事に、
力士隊の中心人物であった山分勝五郎以下29名(半数以上!)が、
隊を離脱して萩に向い、藩に反意は無いと投降。
隊士を半数以上離脱させた伊藤もお粗末ですが、
勝ち馬の乗っていたのに、わざわざ降りちゃう力士達も貧乏くじ。
萩政府は、力士らを撰鋒隊と共に諸隊討伐に向かわせます。
まあ投降者を最前線に送るのはセオリーですからね。
大田絵堂戦の大木津の戦いで、若稲荷勝蔵が戦死しています。
勝ち馬から降りちゃった山分ら元力士隊士は、
萩政府軍が負けちゃったんでこりゃまずいと隠れましたが、
観念して頭を丸めて出頭。
裏切り者は殺せとの声もありましたが、
幕府軍が攻めてくるということで、
少しでも兵は多い方が良いだろうと許され、
山分を隊長としてそのまま存続。名前は勇力隊と改められました。
一方、離脱しなかった力士隊士は、遊撃隊に組み込まれます。
そりゃ裏切った者と一緒じゃやだよね。
その後、力士達は諸隊の一部隊として戊辰戦争に従軍し、
明治2年まで存続した後、諸隊と共に解体されました。
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異種格闘技戦。