金麗社から大田川を上って川上方向へ。
大田川は渓谷に沿って大きく屈曲しています。
道を進むと撰鋒隊士の墓の案内板が・・。
矢印の方向を向くと畑があり、
その向こうに小さなお墓が見える。
「撰鋒隊士の墓」。
元治2年1月10日の幣振坂の戦いで、
戦死した撰鋒隊士の墓。
墓の主は八組士の水津岩之允(28)と、
駒井小源太(40)。
当初は東の山手にあったようですが、
土砂被害で墓所が荒れてしまった為、
管理に便利なここに移設されたそうです。
「慶応乙丑 大田絵堂戦跡記念碑」。
100m程上った川沿いにあります。
大木津の戦いで退却した奇兵隊は、
碑のあるこの辺りまで後退。
萩政府軍は川上口まで進撃します。
これ以上は本陣の金麗社が危うくなる為、
諸隊はここを死守。
金麗社の山縣有朋も銃声が聞こえてくると、
前線に出て指揮をしたという。
「幣振坂」。
奇兵隊第二銃隊隊長湯浅祥之助は、
部下とともに金麗社の御幣を首に掛け、
萩政府軍の背後を突くために、
大田川の西側の山を越えます。
そして写真中央の坂を駆け下り、
萩政府軍の側面を攻撃。
この側面急襲に萩政府軍は混乱して、
態勢は逆転しました。
御幣を振りながら駆け降りた事に因み、
幣振坂と呼ばれるようになったとか。
この戦闘は幣振坂の戦いと呼ばれます。
元治元年1月10日の幣振坂の戦い。
大田川をそのまま上って、
二ノ小野という場所へ。
このあたりが大木津の戦いがあった場所。
大木津には約200名が守備していましたが、
萩政府軍が大挙して押し寄せた為に、
先ほどの川上口まで退却したというわけです。
ここでの萩政府軍の中には力士隊もいました。
力士隊は伊藤俊輔が総督を務め、
功山寺挙兵にも参加した隊で、
功山寺挙兵で新地会所を襲った後、
約50名中29名が脱退し萩政府軍に投降。
投降した力士達は前線に立たされました。
ここで戦死した力士隊士の墓が残っています。
「力士隊士若稲荷勝蔵の墓」。
案内板に従って山道に入りますが、
探しても墓らしきものは無い。
もしかしてこれ?
とやっと探したのが写真の墓。
花を生ける筒があったので、
墓と確信した次第です。
後でネットで調べてみると画像がありました。
石が積んであり、見たものと全然違う状態。
台風で石が崩れたのかな?まさかイタズラ?
周辺に墓石が散乱してたんでしょうね。
このブログを見た関係者の方、
直してあげてください。
①/②/③/④
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挙兵に参加して勝ち組のはずが・・。