絵堂から陣を引いた諸隊は、
大田の光明寺を本陣としました。
「光明寺」。
はじめはここを本陣としますが、
後に北にある金麗社に転陣。
移転した後も病院としていることから、
前線から離れすぎていた為の転陣でしょう。
境内に銀杏の木があって、
ブランコが吊るされていました。
お寺にお子さんかお孫さんがいるのかな?
それとも近所の子達の為のものかな?
手作りブランコ・・・憧れますねぇ。
みよちゃんもご満悦です。
「敬斎羽仁先生之墓」。
長州藩士羽仁正純の墓。
大田で私塾には数百の門人がいたという。
彼は植村正直の実父で、
明治4年に京都に移住しました。
この墓は大田の門人達が建てたもの。
「旧官修墳墓」。
西側にある大田絵堂の戦いの戦死者の墓。
奇兵隊9名、八幡隊2名、南園隊4名、
遊撃隊2名の墓石が並びます。
各地で埋葬されていた墓をまとめたもの。
お次も本陣として使われた金麗社。
「金麗社」。
光明寺から美祢宰判勘場を経て、
金麗社に本陣を移します。
山縣有朋以下諸隊幹部は、
戦勝祈願のために髷を切って奉納。
残念ながらその髷は紛失しているとのこと。
「奇兵隊寄進灯籠」。
小倉戦争を勝利した奇兵隊が、
小倉の延命寺の灯籠を持ち帰り、
ここに奉納したもの。
「杉孫七郎の句碑」。
「星ににた うめのひかりや ちとせまで」
と刻まれており、
維新の発祥という意味らしいですが、
抽象的すぎて全く理解できません。
杉孫七郎は大田絵堂戦役当時、
鎮静会議員の主導者の一人でした。
「大田絵堂戦役戦没者顕彰碑」。
今年できた新しい顕彰碑ですが、
大田絵堂の全戦死者が刻まれています。
素晴らしい出来ですね。
玉木文之進の実子玉木彦助もありました。
「大田邑碑」。
遊撃隊士村田文助の発案で建立された碑。
村田は戊辰戦争まで戦った勇士ですが、
政府に出仕せず郷里に帰っていました。
村田は金麗社に顕彰碑を建てたいと願い、
上京して山縣有朋に嘆願。
三好軍太郎、滋野謙太郎らを通じ、
明治39年に建立されました。
「殉難十七士碑」。
大田絵堂戦役で戦死した諸隊士を祀る碑。
「金麗社社殿」。
当時のままの建物が残されています。
菅原道真を祀る神社ですが、
名前に天満宮とは付いてません。
大田川は昔金麗川と呼ばれたようで、
その名に由来するそうです。
「大田八幡宮社殿」。
明治44年に合祀された大田八幡宮。
金麗社の隣にあります。
諸隊が民の協力を得ることができたのが、
大きな勝因の一つとなっています。
大田の農家は女房子供を実家に帰して、
兵の宿舎として使わせてました。
また後方の小郡から兵糧や軍資金の調達が、
容易だった事も有利な要素となっていました。
①/②/③/④
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功山寺挙兵から維新が始まったという説。
・山口県岩国市 通化寺/遊撃軍の本陣
高杉晋作が総督となっています。
・力士隊について
挙兵に参加して勝ち組のはずが・・。
・福岡県北九州市 延命寺/奇兵隊戦死墓
金麗社の石灯篭は延命寺のもの。