鹿児島県霧島市 龍護院金剛寺跡

慶長9年(1604)に隠居した島津義久は、
祈願所として龍護院金剛寺を建立。
寺名は義久の号である龍伯に因み、
大乗院の末寺に属していたという。


龍護院金剛寺跡」。
廃仏毀釈によって廃寺となっていますが、
跡地には島津義久の三重石塔の他に、
多くの慰霊碑が建てられています。


妙谷寺殿貫明存忠庵主」。
島津義久の三重石塔。
義久は死去後に福昌寺に埋葬されますが、
徳持庵と龍護院金剛寺に分骨されており、
この三重石塔が建立されました。
ここに埋葬されたのは分骨であるとも、
抜歯された歯ともされています。


丁丑戦亡之塚(右)」、
殉忠碑(左)」。
西南戦争での国分出身戦死者の慰霊碑と、
日清及び日露戦争での戦死者の慰霊碑。
「丁丑戦・・」の文字は川口雪蓬の書で、
「殉忠碑」は大久保利貞の書です。
※川口雪蓬は西郷隆盛の書道の師で、
 沖永良部島で知り合った人物。
 西郷家に寄寓していたようです。
※大久保利貞は大久保利通の従弟で、
 陸軍中将まで昇進した人物。

 退官後は霧島神宮宮司となっています。


戊辰戦役之碑」。
戊辰戦争の戦死者の慰霊碑もあります。


真応上人石室」。
境内跡南西にあるお堂で、
その内部に石室が納められています。
金剛寺10世真応上人は元禄5年(1692)に、
三尺四方の石室を造ってそこに籠もり、
昼は読経と仏刻、夜は念仏して過ごし、
7年後に80歳で入滅したという。
後にその徳を慕って人々が礼拝に訪れ、
今も信仰が絶えないとのことです。

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