島津宗家16代当主島津義久は隠居後、
国分に舞鶴城を築いて移り住み、
7年後の慶長11年(1611)に死去しました。
その遺骨は宗家菩提寺である福昌寺の他に、
国分の龍護院金剛寺と徳持庵に分骨。
福昌寺と金剛寺では墓が建てられましたが、
徳持庵では分骨を金襴の袋に収め、
これを大切に祀っていたようです。
「島津義久墓所」。
維新後の廃仏毀釈で徳持庵は廃されますが、
遺骨は明治8年に埋葬される事となり、
この墓所が新たに造営されました。
「大國豊知主命」。
墓碑銘は義久の神号が刻まれており、
墓石は突状の神式のものとなっています。
■関連記事■
・鹿児島県鹿児島市 福昌寺跡/島津宗家墓所①
義久の墓所もある島津宗家の墓所。